被災地で進む新しい挑戦や地域の魅力を特集記事で紹介します。

沖合底引き網漁船・清昭丸 船主 菊地基文氏

海へ出て魚を獲るだけだった漁師から、水産加工品の開発や販売など2次・3次産業にも手を広げるようになったこと。それが、震災前にはなかった大きな変化だ。
震災と原発事故がある前まで、福島県沿岸地域の漁業は沿岸・沖合漁業としては全国屈指の水揚量を誇り、他の地域に比べて若い漁師も育つ「稼げる」漁場だった。(2017年12月26日掲載)

NPO法人いわてNPO-NETサポート 事務局長 菊池広人氏

NPOなどの「ソーシャル業界」で、ごはんを食べる人が何十倍にも増えた。このことが、震災後の岩手をはじめとする東北で生まれた、目に見える大きな変化だろう。
それまでは、地域のコミュニティやまちづくりなどに関わるプレイヤーは高齢の世代が中心だったし、僕らの同世代でもソーシャル専業で生計を立てている人はごく一部に限られていた。(2017年12月22日掲載)

一般社団法人Bridge for Fukushima 代表理事 伴場賢一氏

震災からの約6年間、ずっと考え続けていたことがある。それは、「復興」とは何か、どういう状態になれば復興したと言えるのか?ということだった。僕らは5つの指標で「復興」を定義することにした。(2017年12月19日掲載)

一般社団法人新興事業創出機構(JEBDA)理事長 鷹野秀征氏

震災後の東北の各地域で新たに生まれたもの。それは、行政や企業、NPO、大学、住民など多様なプレイヤーが地域の課題を解決するために協働する「共創モデル」ではないだろうか。企業同士が協力・提携するジョイントベンチャー(合弁企業)などはあったが、異なるセクターが立場を越えて一緒に手を組むことは、従来にはなかったことだ。(2017年12月15日掲載)

NPO法人石巻復興支援ネットワーク(やっぺす)代表理事 兼子佳恵氏

韓流ドラマが大好きな、どこにでもいるような主婦。ろくにパソコンも使えなかったそんな私にとって、すべての仕事が初めての経験ばかりだった。外から来た人からいきなり自分の住む町の現象を「社会課題だ」などと言われ、周囲を飛び交うカタカナのビジネス用語は私には意味不明の言語にしか聞こえなかった。震災後の長く険しい道のりは、そんな激動の中から始まった。(2017年12月13日掲載)

00.リード:釜石PITのマグネット(表紙用).jpg

仮設住宅の灰色の外壁をアートで彩ってみたいという高校生の思いは、大人たちにも共感を呼び、様々な支援となって「マグネットぬりえプロジェクト」を後押しした。釜石市の仮設住宅は2018年に、その大半の供与が終了する予定 だが、プロジェクトは街に、そして他の地震被災地へと広がっている。

リード.jpg

東日本大震災で、死者888人・行方不明者152人、家屋倒壊数3,656棟という大きな被害 を受けた釜石市。仮設住宅の被災者入居戸数はピーク時で2845戸 にのぼった。小学6年生の時に被災し、中学・高校時代を仮設住宅で暮らした少女は、プレハブ長屋の灰色の壁をマグネットアートで彩り、大切な時間を過ごした仮設住宅にも愛着を持てるようにしようというプロジェクトに取り組んだ。

一般社団法人あすびと福島 代表理事 半谷栄寿氏

あえて「変わらないこと」から申し上げたい。それは、福島に対する風評被害だ。6年半経った今も、原発事故の放射能汚染などに起因する「危険」といった悪いイメージが、固定化されてしまっている。時とともに次第に福島への関心は薄れてしまい、そうやって関心が低下する中で、風評被害だけが変わらずに残り続けてしまっている。(2017年12月1日掲載)

福島県立ふたば未来学園高等学校 副校長 南郷市兵氏

「あるわけないやろ!」。あれはまだ、高校生のときだった。阪神淡路大震災が起きたとき、僕はボランティアとして現地に降り立った。「何かできることはありますか?」と声をかけたある女性に、こう怒鳴りつけられたことが今でも忘れられない。とてもショックだったが、そのとき、そこには住民の方々のリアルな痛みや苦しみがあることを痛感した。(2017年11月27日掲載)

漁業生産組合・浜人/漁師 阿部勝太氏

あの日から、とにかくあらゆることが変わり過ぎた。家や友人と遊んでいた場所から、漁港や船、資材などまですべて津波で流され、浜や地域の景色は変わり果てた。そんな絶望の中で、自分自身や家族、友人のため、さらに大きく言えば浜や東北のために僕にできること。それは、漁業の再建しかない。そう胸に誓ったことを思い出す。(2017年11月20日掲載)