震災後の東北の各地域で新たに生まれたもの。それは、行政や企業、NPO、大学、住民など多様なプレイヤーが地域の課題を解決するために協働する「共創モデル」ではないだろうか。企業同士が協力・提携するジョイントベンチャー(合弁企業)などはあったが、異なるセクターが立場を越えて一緒に手を組むことは、従来にはなかったことだ。(2017年12月15日掲載)
被災地で進む新しい挑戦や地域の魅力を特集記事で紹介します。
韓流ドラマが大好きな、どこにでもいるような主婦。ろくにパソコンも使えなかったそんな私にとって、すべての仕事が初めての経験ばかりだった。外から来た人からいきなり自分の住む町の現象を「社会課題だ」などと言われ、周囲を飛び交うカタカナのビジネス用語は私には意味不明の言語にしか聞こえなかった。震災後の長く険しい道のりは、そんな激動の中から始まった。(2017年12月13日掲載)
仮設住宅の灰色の外壁をアートで彩ってみたいという高校生の思いは、大人たちにも共感を呼び、様々な支援となって「マグネットぬりえプロジェクト」を後押しした。釜石市の仮設住宅は2018年に、その大半の供与が終了する予定 だが、プロジェクトは街に、そして他の地震被災地へと広がっている。
東日本大震災で、死者888人・行方不明者152人、家屋倒壊数3,656棟という大きな被害 を受けた釜石市。仮設住宅の被災者入居戸数はピーク時で2845戸 にのぼった。小学6年生の時に被災し、中学・高校時代を仮設住宅で暮らした少女は、プレハブ長屋の灰色の壁をマグネットアートで彩り、大切な時間を過ごした仮設住宅にも愛着を持てるようにしようというプロジェクトに取り組んだ。
あえて「変わらないこと」から申し上げたい。それは、福島に対する風評被害だ。6年半経った今も、原発事故の放射能汚染などに起因する「危険」といった悪いイメージが、固定化されてしまっている。時とともに次第に福島への関心は薄れてしまい、そうやって関心が低下する中で、風評被害だけが変わらずに残り続けてしまっている。(2017年12月1日掲載)
「あるわけないやろ!」。あれはまだ、高校生のときだった。阪神淡路大震災が起きたとき、僕はボランティアとして現地に降り立った。「何かできることはありますか?」と声をかけたある女性に、こう怒鳴りつけられたことが今でも忘れられない。とてもショックだったが、そのとき、そこには住民の方々のリアルな痛みや苦しみがあることを痛感した。(2017年11月27日掲載)
あの日から、とにかくあらゆることが変わり過ぎた。家や友人と遊んでいた場所から、漁港や船、資材などまですべて津波で流され、浜や地域の景色は変わり果てた。そんな絶望の中で、自分自身や家族、友人のため、さらに大きく言えば浜や東北のために僕にできること。それは、漁業の再建しかない。そう胸に誓ったことを思い出す。(2017年11月20日掲載)
震災を境に、社会における価値観の物差しが大きく変わった。日本は戦後の復興や高度経済成長を経て、豊かな社会に生まれ変わった。ただいつしか、誰かに”与えられた”モノやサービスを楽しむ暮らしが当たり前になってしまった。人に与えられたモノはどこか得体が知れなくて、儚い。(2017年10月31日掲載)
妻をはじめとする大切な人たち、大好きだった故郷・蛤浜が津波に飲み込まれたあの瞬間、私を取り巻く環境はすべて一変した。あまりにも変わり果てた浜の光景は、まるで映画の世界のようだった。今でも「本当に現実だったのか」という思いが、ふと頭をよぎることがある。(2017年10月11日掲載)
あの地震と津波によって2万人近い死者・行方不明者が出てしまった。戦争か何かが起こらない限り、僕らが生きている間に目にする、最も悲惨な光景になるのではないだろうか。あれだけのショックを受けて、何かが変わらない方がおかしい。(2017年10月5日掲載)