第9弾 被災地女川を起点に、日本そして世界中の地域の活性、発展、変革を目指す

 東日本大震災で、甚大な被害に見舞われた宮城県女川町(おながわちょう)。津波が町を呑み込み、一般家屋の約7割が全半壊、死者、行方不明者は人口の1割近い827名に及んだ。その復興、まちづくり、人づくりに取り組むNPO法人のひとつが、小松洋介さんの立ち上げた「アスヘノキボウ」である。

 仙台市出身の小松さんは、大学卒業後リクルートに入社。その7年後、故郷を震災が襲う。すぐに宮城県にボランティアに入った小松さんは、自分に何ができるか考え続けていたという。

 「そこから出てきたのが、トレーラーハウスの宿のアイデアでした」。

 被災地の旅館やホテルは、ほとんどが休業状態。ボランティアや復興工事に従事する人たちは、仙台市から車で通うしかなかった。宿泊施設を新たに造りたくても、津波被害を受けた土地には建築制限という問題が横たわっていた。

 しかしトレーラーハウスなら車両扱いのため、建築基準法上の制限を受けない。これなら被災地でも設置しやすいし、復興が本格化して撤去する時が来ても、簡単に移転できる。このアイデアを携え、小松さんは宮城県内の被災地を巡った。そこで紹介されたのが、女川町の旅館組合だった。

 「人口流出が激しい被災地では消費活動が弱まり、経済が停滞している。宿泊施設ができれば人が増え、消費も上向く」。
 
 小松さんの説くトレーラーハウスホテルのメリットに最初に反応したのが、両親と実家の旅館「奈々美や」をともに失った佐々木里子さんをはじめ、女川町で被災した4つの旅館だった。

 様々な課題を乗り越えて、2012年12月に、トレーラーハウス宿泊村「EL Faro」が開業。その後復興が進み、観光客も増えたため、昨年6月に同町清水地区からJR女川駅近くに移転され、8月にリニューアルオープンした=写真1=。状況の変化に応じて自由に移転できるという小松さんの考えたメリットが、まさに実行に移されたのだった。  

前1_トレーラーハウス宿泊村「El Faro」.jpg(写真1)トレーラーハウス宿泊村「EL Faro」


 話は震災直後に戻る。この時点ではまだ、ボランティアとして被災地通いを続けていた小松さん。リクルートに入社した最初の配属先が出身地の仙台で、未開拓のエリアだからと飛び込み営業してこいといわれたのが、女川町を含む宮城県の沿岸部だった。

 「新人時代、右も左もわからない時代に気仙沼から松島までの沿岸部を営業していました。そこでいろいろな実績を作らせてもらって、大きな企業を担当させてもらって、昇進もできた。その意味では僕の原点というべき地域でした」。  

 そんな小松さんの回った町や村が、津波で甚大な被害を受けたり、クライアントの方や家族が亡くなった。そのことが小松さんには、何より衝撃だったという。

 このまま東京で、仕事をしていていいのか。その思いを抱えたまま、小松さんはお世話になったクライアントの方々を訪ねて手伝うことを続けた末に、退職を決断する。  

 「生活の不安は、もちろんありました。なので仙台にUターンして、仕事をしながら被災地とかかわるという選択肢も考えました。いろいろ悩みましたけど、でも就職してしまったら、そこまで向き合えないかと。当時まだ29歳でしたし、20代最後だし、今までけっこう普通に就職して、普通の生き方をしてきたし、こんな生き方もあるかなと。もし今やらなかったら、30、40になってもやらないだろうという思いはありました」。  

 当時の小松さんはすでに結婚され、父親にもなっていた。

 「家族の反対も予想していたし、でも自分で決めて、自分でやらなきゃと思っていました。反対されても成果を出して、納得してもらおうと」。  

前2_小松洋介さん.jpg(写真2)NPO法人「アスヘノキボウ」代表理事 小松洋介さん


 震災から約半年後の2011年9月に、小松さんはリクルートを正式に退職。女川町に居を定めたのは、被災地の課題を見つけるために3ヶ月間、宮城県内の被災地を訪問し続けた際の出会いがきっかけだった。

  「いっしょにやらないかと言ってくれたのが、女川町の人たちだったんです。被災地の中でも女川はスピード感を持って、いろんなことを変えていこうとしていた。それで僕の提案したいろいろなアイデアも、あ、それいいねとすぐに実行に移してくれたり」。  

 女川町ではまず、女川町復興連絡協議会の戦略室に所属。復興提言書の作成や再建・起業支援を行った。

 「女川は官と民の距離が、すごく近いんです。行政だけでなく民間が『自分たちでまちづくりをするんだ』と動いて、行政や議会と連携してやってたんですね。その中心になったのが、民間団体の女川町復興連絡協議会で、そこにまず入ったわけです」。  

 この時点での小松さんは「こんな事業があったら、もっと町が盛り上がるだろう」と、あくまで女川の復興、まちづくりが主な目標だった。その後、起業した人の手助けや起業シェアなど活動の幅を広げて行く中で、戦略室を法人化する形で、特定非営利活動法人「アスヘノキボウ」を設立する。  

 小松さんがこのNPO法人を立ち上げた目的の第一は、まず何よりも被災地の復興である。そして復興が軌道に乗った時には、その経験、ノウハウを活かし、「全国、そして世界の過疎化に悩む町、地域、地区の支援を行っていきたい」というのが小松さんの最終目標だ。  

 そのためのカギになるのが、「人」であると小松さんは言う。  

 被災地と呼ばれる地区の多くは、震災前から過疎化が深刻化していた地域がほとんどだった。そして深刻な過疎化は、震災によっていっそう加速していった。地震や津波で犠牲になった方々に加え、住む場所や仕事を失うことで、残った人々も他地域に出ていった。

 その結果、人口減少にいっそう歯止めが効かなくなってしまったのである。 このままではせっかく復興が進んで町並みが復活しても、肝心の「人」がいなくなってしまう。今のうちから「人」が住み続け、戻り、集まるための町をつくらなければならない。

 そしてその活動を進めていけば、将来的には日本の様々な地方で新しいビジネスが生まれ、地域の根幹産業が活性化し、地域全体が活性化していくのではないか。  

 まちづくり、人づくりを続けることで、女川町がささやかな起点になってほしい。小松さんのそんな願いが、「アスヘノキボウ」設立へと繋がったのだった。

前3_アスヘノキボウメンバーのみなさん.jpg(写真3)「アスヘノキボウ」メンバーのみなさん


 「アスヘノキボウ」を立ち上げた小松洋介さん。しかし震災からの復興が進み、女川の町内と町外の人々の交流が活発になるにつれ、この町に決定的に足りないものを痛感するようになっていた。

 それは「場」の存在である。「交流が活発になることによって新しい事業が生まれたり、新しいベント、取り組みが出てきたりした。それで町がどんどん変化していくのを僕も目の当たりにしたし、町の人たちも実感していた。震災以降も、こういう内外の人たちの交流をなくさないようにしないといけない。その機会、場所が今の町にあるだろうかと考えたわけです」。

 当時の女川町では、内外の交流は各組織のリーダーが個別に対応するしかなかった。このままでは女川に来たいと思う人々も減っていき、活動も限界にぶつかってしまうのは明らかだった。こうして、小松さんの「場」を作りたいという思いが具現化され、誕生したのが、「女川フューチャーセンターCamass」(以下、Camass)という交流施設だった。  

 Camassは、カマスと読み、女川弁の「かます=かき混ぜる」と英単語の「Mass=たくさんの・大勢で」の2つを組み合わせた造語だという。「女川でみんなのつながりを作る場所として愛されるように」という想いを込め、震災から4年経った2015年3月にオープンした。

後1_女川フューチャーセンターCamass.JPG(写真4)女川フューチャーセンターCamass


 そしてCamassのオープンを機に、小松さんたちがそれまで温めていたユニークなアイデアが次々に整備、実現されていく。それは現在3つのプログラムとして、「アスヘノキボウ」の活動の中核となっている。  

 『女川、地方に関わるきっかけプログラム』『創業本気プログラム』『お試し移住プログラム』。

 この3つのプログラムは一見まったく関係ないものに見えるが、実はそれぞれが相互に連関し、深く絡み合っているものだ。

 まず、『お試し移住プログラム』。女川町への扉を開くプログラムというべきもので、この町を知ってもらうために実際に住み、自然や人の素晴しさを体験してもらう。「移住」というとハードルが高そうに感じるが、このプログラムでは、5日から30日間、自由に滞在期間を選択し、女川町に滞在してもらう。

 「緩やかなプログラムに参加して、まずは女川なり地方の暮らしの良し悪しを体感してもらう。滞在そのものを楽しんでもらえれば」というのが、小松さんの願いだ。

 あえて「良し悪し」というところが、小松さんの飾らないところというか、誠実さであろう。地方で生きることは、いいことばかりではない。バラ色の未来ばかりではないことも含めて、すべてを知ってもらって判断を任せるというスタンスなのである。

 しかも宿泊費は無料。男女それぞれのシェアハウスに住み、滞在中は何をしてもいい。参加条件は事前に面談を受け、15,000円のオリエンテーション費を払って町の歴史や復興の現状などを学ぶこと。あとは代々の参加者が書き継いでいる「お試し移住者リレーブログ」と、最終日の滞在レポートを執筆してもらうことになっている。

 オリエンテーションでは移住の心構えについてのレクチャーも受けるが、移住する意思の有無はプログラムの参加条件ではない。あくまで女川をより良く知ってもらうことが目的であるからだ。

 参加者は長い休みを利用した学生が多いというが、社会人も少なくない。普通の会社員から飲食店経営者、シンガーソングライター兼翻訳家など、多彩な人々が訪れている。滞在中、何をするかは自分次第。のんびり散歩をして海辺で1日ボーッとしたり、買い物がてら町の人とおしゃべりしたり。新鮮な魚介類がてんこ盛りの名物「女川丼」をはじめ、食べ歩きにも事欠かないし、夜は酒場で盛り上がってもいい。何をしたらいいかわからない人には、「アスヘノキボウ」のスタッフが町案内をしてくれる。

5.お試し移住プログラムの様子1.jpg(写真5)「お試し移住プログラム」の様子


 「お試し移住」の次の段階ともいうべきプログラムが、2つ目の『女川、地方にかかわるきっかけプログラム』である。小松さんはその意図を、「自分なりの地方との関わり方を、緩やかに見つけていきましょうという提案です」と説明してくれた。

 「地方に何か興味がある、関心がある人たちで、でも具体的にどこにアクセスしたらいいかわからない。移住しないと、地方に関われないと思ってる人がたくさんいると思うんです。あえて移住しなくても、いろんな関わり方がありますよという、それを知る場になれば」。  

 具体的には、女川に2泊3日(金曜21時〜日曜16時)滞在し、女川のまちづくりや各産業の魅力や課題を学んだり、町内外の起業家、経営者、移住者等と交流して、参加者に地方との関わり方を探してもらったりするプログラムだ。  

 震災後の女川町には、スペインタイル工房、石けん工房、グラフィティアート、クラフトビール店、ギター工房といった新しいビジネスが次々に生まれていった。それらの店に出かけて、起業した人々に直接話を聴いたり、魚市場見学や町内散策、山歩き体験といったフィールドワークを通して、自分と女川や地域の関わり方を考えたりすることが目的だ。

後3_きっかけプログラムの様子.jpg(写真6)「女川、地方にかかわるきっかけプログラム」の様子


 そして最後の『創業本気プログラム』。

 「お試し移住プログラム」と「女川、地方にかかわるきっかけプログラム」が女川町に直接関係したものなのに対し、こちらは全国で起業を考えている人たちの支援を目的としている。とはいえ小松さんは、「それがひいては、女川町の魅力になる」と言う。

 「そもそもこれら3つのプログラムは、女川での活動人口を増やすことが目的なんですね。活動人口とは何かというと、町民に限らず、町を使う人のことなんです。それを増やしていきたい。日本全体の人口が減っていく中で、女川だけを増やすのは簡単なことではない。この町を使う人が増えて、結果として女川で暮らしたい人が増えていけばいいなと。ただ移住、定住を叫んでも、町自体に魅力がなければ移住してくれませんから」。  

 小松さんたちはすでに震災以降、女川で起業する人たちの支援はずっとやって来た。それをさらに広げて、全国の地方で起業する人たちも応援するプログラムにすれば、起業の準備をした町が女川になる。「女川を起業のふるさとにする」のが、小松さんの目標である。  

 「たとえ他の町で起業したとしても、その後も何らかのつながりができる。結果的に活動人口になりますから」。  

 「創業本気プログラム」は2日間×4回の全8日間にわたって、みっちり行われる。「なぜ、どんな起業をしたいのか」という参加者の思いを整理し、それぞれに適したビジネスモデルを練る。 それを支えるのが、女川町商工会の職員や行政職員、さらに実際に起業した現役経営者たち。彼らが定期的に講師陣に加わり、創業に至るまでの想いや、それを具体的にどう実現して行ったか、マンツーマンでのレクチャーも行われる。

 そして最終日には、各参加者がビジネスプランのプレゼンをして終了となる。

 実際に取材したのは、最終プレゼンの前日。5人のプレゼンター(起業家)が、小松さんを含む4人のメンターの前で、プレゼンのリハーサルを行った。

 一人15分間のプレゼンの後、質疑応答の時間が5分間設けられる。 プレゼンターは15分間の中で、簡単な自己紹介に始まり、起業を思い立った原体験から仕事内容、収支計画まで具体的な起業プランを発表する。

  あるプレゼンターは自身の生い立ちや震災当時の心境を振り返り、趣味であるコーヒーの焙煎とひとり親家庭の支援とを結びつけた焙煎工房経営のビジョンを語った。また、アクティブシニア増加の波に乗ったアプリの開発や、短期の経理業務代行・データ入力代行会社起業を志す者もいた。

 プレゼン後、メンターからはスライドの作り方や話し方など、伝わるためのプレゼン技術について的確なアドバイスがされた。同時に、市場やニーズ、中長期計画はどのようなものか、ビジネスとして成立するのか、鋭い指摘が入るケースもあった。

 プレゼンターが本当に伝えたいことは何なのか、どうすれば心を打つプレゼンになるのか、メンターは一緒になって考える。 こうして質疑応答終了後、プレゼンターはメンターからの力強いアドバイスを反映させ最終プレゼンに臨む。中には寝ずに準備をする者もいるそうだ。  

後4_創業本気プログラム前日リハーサルの様子.jpg(写真7)「創業本気プログラム」前日リハーサルの様子


 上述したようにこれら3つのプログラムは、深く連関し合っている。実際、お試し移住をしながら、滞在中にきっかけプログラムを受ける人は多い。さらにそこから創業本気プログラムへと繋がる流れができつつあり、「3つが有機的に、うまく回るようになりました」と、小松さんは手ごたえを感じている。

 ただし課題もあるという。  

 「これら3つのプログラムは、今後も継続させていかなければならない。今は女川町から委託を受けていますが、将来的にこれらのプログラムに参加したい人をどう増やしていくか」。  

 「各プログラムを個別に見ても、たとえばお試し移住はおかげさまでけっこう参加者の数が増えてて、その滞在中にたとえば地元の商店、個人事業主さんのところでアルバイトする人も出てきた。一時的に忙しくても、長期でずっと雇用するのは難しいという店がほとんどなわけです。そういう時にお試し移住の人たちが、期間中だけ手伝ってくれるのは非常にありがたい。人手不足の解消に、一部繋がるわけです。さらに夜、呑みに出てきてもらえば、町の人との繋がりが深くなると同時に、経済的な貢献にもなる。 ただこのプログラムもまだまだ改善中で、参加者の皆さんにより満足していただくために、このプログラムをどう成長・発展させていくかなどを、日々役場の人と議論してます」。  

 小松さんをはじめとする町内外の人たちが創造的なアイデアを出し合い、官民の密接な連携でそれらを実現していくことで、女川町は全国的にもユニークな町づくり、ひとづくりのひとつの形を作り上げつつある。  

 しかしそんな女川町ですら、震災前に約1万人いた人口は、7000人弱。近年先止まりしたとはいえ減少は止まっていない。  

 「課題はいくらでもあります。でも皆で協力すれば、乗り越えられない壁はないと信じてます。復興を絶対に成功させて、ひいてはその経験、ノウハウを活かして、日本そして世界の過疎化に悩む町や地域の支援を行っていきたいですね」と、小松さんは語ってくれた。