全国32万人の就労人口が20年で17万人まで減った水産業。東日本大震災が追い打ちをかけるなか、宮城県石巻市にあるフィッシャーマン・ジャパンは「担い手育成事業」と「水産物販売事業」を2本柱に、復興を超えた革新的な産業構築へ挑戦を続けている。
フィッシャーマン・ジャパンは、宮城県石巻市の若き漁師、阿部勝太さん(30)=写真1=と、ヤフー株式会社の会社員、長谷川琢也さん(40)=写真2=の出会いをきっかけに生まれた。
(写真1)阿部勝太さん
(写真2)長谷川琢也さん
阿部さんが生まれ育ったのは石巻市北上町の十三浜。十三浜は、豊かな森を流れる北上川が十分なミネラル分を河口まで運び、国内最高級のわかめの産地と知られる場所だ。阿部さんの家も代々続くわかめ漁師で、東日本大震災の前から父の元、わかめ漁師として働き始めていた。
(写真3)漁の様子
しかし、漁師になって阿部さんは仕事に疑問を抱くようになる。お盆と正月以外、ほとんど休みなく働いているのに生活が苦しいこと。誰にも負けない上等のわかめをつくっても、ほかと卸価格がほとんど変わらないこと。ただ、日々の課題をみつけても、よりよい漁業を目指して行動を起こすようなことはなかったという。
阿部さんを変えたのは、震災だった。震災で壊滅的な被害を受けた地元で仮設住宅への入居が始まり、地域のためのボランティア活動に区切りがついたころ、漁師仲間はクレーンの免許を取るようになっていた。十数年間は復興関連の土木事業があるとされ、漁業を離れてそちらへ流れていったのだ。若手だけではない、漁師を辞めるベテランも増えていった。補助金が出るとはいえ、漁師たちは借金をして漁業を再開するだけの気力を持てなくなっていた。
親しい友人の死、仲間たちの地元離れ、それでも阿部さんは漁業をあきらめきれなかった。自分の身にも何が起こるか分からない、明日死んでしまうことがあるかもしれない。そんな経験をしたからこそ、「今のうちに漁師としてできることをしておきたい」と強く願うようになった。
震災前からの課題解決に加え、十三浜の未来のため、漁業や加工業、農業の成功モデルを探して国内各地を飛び回る日々。そこで水産業が抱える深刻な現実を目の当たりにする。「従来のやり方を変えなければ、十三浜どころか日本の水産業が行き詰まる」。自分ひとりでは到底実現できない難しい課題に直面し、ともに使命感を持ち動いてくれる仲間を探すようになった。
現在フィッシャーマン・ジャパンの事務局長を務める長谷川さんは震災当時、ヤフー株式会社で販売促進やyahoo!
オークション(現・ヤフオク!)の仕事を手がけていた。3月11日は長谷川さんの誕生日、震災後すぐに「とにかく何かをしなければ」と、ボランティア活動をするためプライベートで東北の地に立った。
泥かきなどのボランティア活動を続けるうち、地元の生産者とヤフーで東北の生産物をインターネット販売する応援サイトを立ち上げたが、個人の力でできることには限界を感じた。
長期的に地域産業を支える事業の必要性を痛感し、会社にかけあってヤフーの新しい事業所、ヤフー石巻復興ベース(現・石巻ベース)をつくることに成功する。ベース開設と同時に長谷川さん自身も、家族と一緒に石巻へ移住した。
移住した長谷川さんが2012年に出会ったのが、わかめ漁師の阿部さんだった。阿部さんの漁船に乗って日々の仕事ぶりを知ることで、阿部さんの漁師としての思いを理解し、共感するようになっていった。
(写真4)一緒に漁に出る阿部さんと長谷川さん
二人は「水産業で新しいこと、未来へつながることをする」ための団体を立ち上げたいと動き始め、時間をかけてチームをつくっていく。 一般的に「漁師は一匹狼」といわれる。自分が海から多くの資源を得るためには、隣に住む親戚の漁師ですらライバルだ。漁師と仲買人、仲買人と魚屋の間にも、それぞれ利害関係がある。漁師は魚を高く買ってもらいたいし、仲買人はなるべく安く買いたいのが当たり前だ。
しかし、これからの水産業は自分のことだけ考えればよい状態ではない。阿部さんと長谷川さんは、既存の概念にとらわれず地域や職種を超え、志を共にする仲間を一人、また一人と増やしていった。
こうして2014年7月、一般社団法人フィッシャーマン・ジャパンが設立された。
当時の構成メンバーは漁師が8人、魚屋が3人、事務局が2人。事業の柱を「担い手育成事業」と「水産物販売事業」の二つに決めた。
2014年にフィッシャーマン・ジャパンが走り出してから、イベントへの出店や、プロモーション活動への参加などさまざまな誘いがあったが、イベントへ出店してみても、なかなかそれが継続的な活動に繋がらない。事業として継続するための具体的なプランが必要なのではないか。
もともと、阿部さんだけではなく漁師のメンバーは皆、「人間が生きるのに不可欠な食べ物を得る仕事をしているのに、一般企業に勤める人より稼ぎが安定しないのはなぜだろう」という疑問を抱いていた。
そのためなのか、メンバー世代の漁師たちは、自分の親に「家業を継げ」と言われたことがない者も多い。漁師という職業を誇りに思ってもらい、子供に継いでもらえないにしても、職業選択の一つとして考えてもらえるようにしたい。
日本の水産業自体が震災前から衰退傾向にあった。若者の水産業離れの一因とされる、3K職場のイメージを劇的に変えるため、「かっこよくて」「稼げて」「革新的な」新3Kの産業を創るという活動理念をフィッシャーマン・ジャパンとして掲げることに決めた。
そして活動のビジョンを、「フィッシャーマンを1000人、設立後10年となる2024年までに創り出す」ことに定めた。
新3Kの一つ「革新的な」という言葉は、いままでと違った新しいことを始めようという、団体の存在そのものを象徴している。従来のように漁師だけでなく、水産業に関わる人全体、外部の人までも巻き込んだうえで新しい事業を展開し、間口を広げることで、水産業を稼げる職場にしていこうという志だ。
ここでいう「フィッシャーマン」とは、漁師だけでなく、水産業に関わる多種多様な職業人すべてを指す。水産業を稼げる産業にするために、フィッシャーマンを1000人増やすことで、水産業全体に革命を起こす。水産業全体の売り上げ規模を100億円程度押し上げよう、といういわば革命だ。
いまも、そのきっかけとなるビジネスモデルをつくることを目指し、二つの事業に取り組んでいる。
担い手育成事業の「TRITON
PROJECT」は、新世代のフィッシャーマンを増やすためのプロジェクトだ。
プロジェクトの一貫として空き家を改築した「TRITON BASE」=写真5=という基地を設け、仕事があっても住むところがないという漁師志望の人たちを受け入れる宿泊施設やシェアハウスとして使っている。現在「TRITON BASE」は十三浜、女川など県内5か所にある。
(写真5)TRITON BASE
ほかに「TRITON SCHOOL」という短期漁業研修プログラムも実施中だ。いままで4回の研修が実施され、2017年11月の「TRITON SCHOOL」は参加者6人のうち3人から、実際に漁師になる相談を受けているところだという。
(写真6)TRITON SCHOOLでの活動風景
また、水産業特化型の求人サイト「TRITON JOB」の運営もスタートした。せっかく漁師になりたい人がいても、求人情報がなくては事務局まで来てもらえる可能性は低い。漁師側も、外の人を通年で雇った経験がない人が多い。求人サイトは漁師の卵へ情報発信するだけでなく、職種や仕事の形態、居住地など応募者の希望をきめ細かく聞き取って、人手がほしい漁師との効率的なマッチングに役立てている。
こうして設立からいままで、フィッシャーマンは40人増えた。そのうち漁師は16人、なかには自身で漁業権を持つことを目標に見据えち、2018年春には自身で育てた牡蠣を出荷予定の若者人もいるという。
もう一つの柱、水産物販売事業は2016年3月に株式会社として分社化させた。一般社団法人で販売事業を広げることには限界があるため、経営の合理化を図ったかたちだ。
販売事業は基本的にB to B(企業間取引)と卸事業、百貨店、スーパー、チェーンの飲食店に対する海産物販売を主体とする。販売事業も従来のやり方とは違い、漁師の顔の見える事業スタイルを貫いている。
メンバーが百貨店などの売り場を視察することはもちろん、バイヤーにも船に乗ってもらい、実際の生産現場を見たうえでタッグを組む。これまでの漁師は水揚げを漁協に出したら終わり、漁協も仲買人に渡したら終わりで、消費者へどう届くかを誰も知らずに水産物を流通させてきた。そのシステムを変え、よりよい生産物を適切な価格で、魚のおいしい食べ方などの情報サービスとともに届けたいと考えている。
さらに、東京・中野区に直営の飲食店「魚谷屋」=写真7、8、9=を開いた。米や野菜、酒などすべての食材が宮城県産。メンバーをはじめ生産者が月に1回は店に立ち食材の説明をすることで、消費者と生産者の交流の場ともなっている。
(写真7)宮城漁師酒場 魚谷屋(写真は店主の魚谷浩さん)
(写真8)魚谷屋の店内の様子
(写真9)魚谷屋の店内の様子
国内だけにとどまらず、海外事業にも取り組んでいる。国内初の民営化空港となった仙台空港と輸出組合を立ち上げた。輸出はタイやマレーシアなどアジアの国々を中心に始まったばかりだが、輸出先に常設店を設けるなど、将来性に期待がふくらんでいる。
このようにフィッシャーマン・ジャパンの革新的な水産業への挑戦は続いており、共に挑む漁師たちの輪はベテラン漁師から小中高生や子どもたち、地域は県内から全国へ、関わる人種は漁師だけでなく行政や漁協職員、これまで水産業と関わりのなかった他業種の企業、いろんな壁を越えて今もなお広がり続けている。
漁師たちの思いに共感し、カタチにしていく助っ人として事務局のメンバーを増やしてきた(一般社団法人の事務局員は7人、株式会社の事務局員も7人)。震災直後に千葉県からボランティアで東北に入り、設立当初からのメンバーとなったである事務局の島本幸奈さんは話している。
「例えば、小学校の時にさつまいもを育てたり、ミニトマトを育てたり、農業に触れる機会があるのに水産業に触れる機会は、大人になってからでさえ見つけるのが難しい。魚をさばける人の数も減っていますよね。和食の中心、魚食文化の日本で、魚が食べられなくなることはとても悲しいことだと思います。漁業に触れる機会を増やして水産業へのイメージを変えて、未来の食卓へ食べ物を届け続けたいと願っています」
それが、メンバー全員の願いでもある。
(写真10)フィッシャーマン・ジャパンのメンバーのみなさん
※写真提供「フィッシャーマン・ジャパン」