第6弾 全村避難からの再生を目指す川内村の魅力を、全国に発信する

 福島第一原発の事故で全村避難を余儀なくされた福島県川内村。一時は人口ゼロとなった村には、避難解除後の今も震災前の賑わいは戻っていない。ふるさとを活性化するために、自分に何ができるのか。高校卒業後村を離れ、震災を機に約20年ぶりに帰村した渡辺正さんは、様々な困難に遭遇しつつ、少しずつアイデアを形にしていく。

 福島第一原発の事故で全村が避難指示区域となった川内村は、全村民が避難を余儀なくされた。その後2012年以降、少しずつ避難指示が解除され、2016年6月には全域解除となった。震災前には約3000人いた川内村だが、村で生活しているのは、2200人程度だ。

 そんな川内村の活性化に日々奮闘しているのが、渡辺正さん=写真1=である。川内村で生まれ育ち、進学を機に仙台で暮らし始めた渡辺さんは、卒業後も仙台に留まった。震災に遭遇したのは、その後仙台近郊の大川原町に居を移してから。村を離れてから、すでに20年近くが経っていた。

写真1(日々奮闘する)渡辺正さん.JPG(写真1)日々奮闘する渡辺正さん


 「それまでは、いつでも帰れると思ってました。でもその故郷が、もしかしたらなくなってしまうかもしれないという状況になった。その時、このままにしたくないという思いが湧いてきたんですね」。

 郡山駅前の喫茶店で待ち合わせた渡辺さんは、東京出張から昼過ぎに帰ったばかり。しかし着いてすぐに地元の人たちと新たな事業展開の打ち合わせに入り=写真2=、2時間ほどしてようやく身体が空いたところだった。

写真2川内村特産品の全国展開に向けて.JPG(写真2)川内村特産品の全国展開に向けて


 と書くと、さぞ精力的に動き回るビジネスマンタイプを想像するかもしれない。しかし実際にお会いした渡辺さんは朴訥な雰囲気の紳士で、柔らかな福島訛りがいっそう人柄を丸く感じさせる。待ち合わせに遅れたことをしきりに詫びる渡辺さんに、勝手に押しかけて来たこちらは逆に恐縮してしまった。とはいえ、渡辺さんの紡ぐ言葉は重い。

 「震災後、いろんな人たちが村のために取り組んでくれました。川内村とは縁もゆかりもないのに、復興のためにと一生懸命やってくれた。その姿を見て、申しわけないと思うと同時に、悔しい部分もあったんですね。今後、復興していく中で、自分の知らない村ができてしまうんじゃないか。故郷じゃない村ができてしまうという感覚といいますか。だったら自分が帰って、自分の好きな故郷を再生させたいというか。もちろん復興に携わってくれてる方々には、今もすごく感謝してます。でもそこに自分も関わりたいと思ったんです。村で話を聴くと、地元の人間はむしろ消極的だという。なるようにしかならないと。放射能というわけのわからないものに対する恐怖もありましたしね」。

 震災の約一年後、2012年5月に渡辺さんは村に戻った。それまで大河原町で開講していたパソコン教室は、いっしょに立ち上げた先輩に譲っての帰村だった。実は渡辺さんの奥さんと二人の子供は、震災当時は村に住んでいた。

 「両親の面倒も見なきゃと一回家族で帰ったんですが、村に仕事がない。それで単身で仙台に出て、旅行会社のかたわらパソコン教室を始めてからもその状態が続いたわけです」。震災直後、家族は郡山市のビッグパレットふくしまに避難し、渡辺さんも合流する。パソコン教室の生徒さんたちから、「ご家族でこっちに移ってきたら」と言ってもらったりした渡辺さんは、彼らからも慕われていたのだろう。しかし年老いた両親を、新しい土地に連れて行くのはむずかしいと断念した。

 「両親は村で長く、小さな商店をやってました。ガス屋だったり雑貨屋だったり。家族でビッグパレットに避難しても、やっぱり地元の人といっしょにいたがった」。なので、解除になったらすぐに村に戻るはずだったが、渡辺さんの下の娘さんはダウン症で、村には支援学級がない。そのため引き続き郡山の借り上げ住宅に住み、渡辺さんだけが川内村の実家に戻った。逆単身である。

 「そうなんです。いつも単身赴任」と、渡辺さんは、苦笑する。それが今年の春、ようやく家族が合流した。長男は大学に進み、娘さんは車で1時間ほどかかる田村市の支援学校に通う。田村市で働く奥さんが、毎朝送って行く。さらに避難中に脳梗塞で倒れた父親の介護もしなければならない。


 「ちょっと認知症気味なんですね。川内村にやっと帰ったのに、『そろそろ帰ろう』なんて言う。父親の「帰ろう」は、郡山になっちゃってる。便利だし、向こうの方がいいんでしょう。相談したいことがいっぱいあるのに、それもできない。息子としては寂しいですね」。

 そんな中でも、渡辺さんは毎日忙しく飛び回っている。いただいた名刺の裏には、様々な肩書きが記されていた。主な業務は、震災後に村役場や商工会が中心になって立ち上げたショッピングセンター「YO-TASHI」=写真3、4=の施設長である。ここには現在、コンビニと薬局、クリーニング屋さんが入っている。当初はそれ以外にも村の既存の商店に入ってもらうつもりだったが、その話は立ち消えになってしまったと渡辺さんは言う。

写真3「YO-TASHI」の外観.JPG(写真3)「YO-TASHI」の外観

写真4「YO-TASHI」の店内.JPG(写真4)「YO-TASHI」の店内


 「というのも地元の商店主たちは高齢者が多くて、跡継ぎがいても村に帰ってない。これでは店が続かないわけです。一方でちゃんと店を回してる人たちも、自由にというか、勝手にやりたいんですね。ショッピングセンターに入ってしまうと、勝手に休めない。商工会からは、社員にします、給料払いますと言ってきたんですね。給料制の方が生活も安定するだろうと。でもその思惑も全部外れました。休みたい時に休むし、開けたい時に開けると(笑)。村の運営の仕方と、全然マッチしてなかった。村や商工会は、よかれと思ってやってるんですが、マッチしない。村の商店を潰すために、ショッピングセンターを作るんだと思う人もいたぐらいで」。

 ここまでやって来た渡辺さんは、「結局は、行政中心の村作りなのか」と感じたこともあったが「急を要する案件でもあり、役所の立場に立てば少しずつでも段階的に進めていくほかない」と前を向く。

 「民間で仕事してると、営業して仕事を取るのが当然じゃないですか。でも村とか過疎地のシステムは違うんですよ。一番お金を持ってるのは、行政なんです。それが村民に助成金を与える。でも最初に戻って来た時は、それもわかってなかったですね。被災地になったから助成金が出るのかと思ってたら、それ以前から国や県や村から助成金が出てた。すごくぬるま湯なんですよ」。

 現在も、助成金は何らかの形で出続けているという。たとえば村に道路を造る。民間の感覚だと不採算な道路だが、行政からすれば地元の人のためであり、地元の建設業者も潤う。
 
 「そういう歴史があるから、自分がやらなくても県や村が何とかしてくれる。村民の意識は、震災後の今もそうなんだなと痛感しました」。

 人口減少、高齢化、若者の流出、過疎化という、全国どこの地方でも起きている問題に、川内村も直面していた。それが川内村の場合、震災でさらに加速したということだ。

 「一方で村の魅力を発信しようとすると、住んでるみんなが村を好きなことが伝わってくる。なのにそれに、取り組まない。私も止めようと思ったぐらいだし、村の本当の魅力に気付いてなかったですね。今も十分には、わかってないかもしれない」。

 戦前の川内村は林業で栄え、中でも木炭は全国一の生産量を誇った。村有林からの利益で潤った村は、昭和初期に住民税を廃止。「無税川内村」の名前が全国に知れ渡るほどだったという。戦後、木炭や材木の価格が低迷し、村の基幹産業は衰退して行く。川内村の歴史を知って、わざわざ炭焼きを復活させようと、住みついた人もいるという。しかし放射性物質が焼いた灰に残るため、売り物にはならない。

 「木炭はすごく需要があると思うんですけどね。家を新築する際に、下に木炭を敷き詰めるとか。わざわざそう言って買いに来てくれた人もいるぐらいで」と、渡辺さんは残念がる。
 
 「歴史的に川内村は、国のエネルギー拠点だったんです。かつては木炭生産で貢献していたし、今は原発がすぐ近くですし。林業のあと人々は農業に移りました。ただ収入は非常に低いです」。

 「山はすっかり荒廃してしまったし、そもそも山なんて日本中どこにでもあるじゃないですか」という渡辺さん。しかし東京から来た私には、遠くに望む穏やかな山並みは非常に美しいものに感じた。ちょうど紅葉真っ盛りだったこともあるが、すぐにでも駆け出したい衝動に駆られたほどだ=写真5=。

写真4川内村の美しい紅葉.jpg(写真5)川内村の美しい紅葉
 

 そんな子供じみた感想を言うと、渡辺さんは「実は2018年4月に3年目になるマラソン大会をやってるんですよ」という。名称は、「川内の郷(さと)かえるマラソン」。村にある平伏沼(へぶすぬま)=写真6=はモリアオガエルの生息地として国の天然記念物に指定されている。それが名前の由来となったこの大会には、第1回の2016年から欠かさず、公務員ランナーとして著名な川内優輝さんがゲスト参加している。同じ川内という名前から、快諾してくれたのだった。

写真5平伏沼(へぶすぬま).jpg(写真6)平伏沼(へぶすぬま) 


「田園風景を走るっていうのがすごく良くて、皆さん喜んでくださってます。普段都会で走ってる人たちにとっては、田舎の風景が新鮮みたいなんですよね」。

 まさにその通りなのである。そしてマラソン大会を一つのきっかけとして、地元の人たちと繋がりができる。そうすれば、村はその人にとって特別な存在となる。

 「川内村なんてどこにでもある村だし、その風景が誇れるものだとは私にはどうしても思えなかった。ただ私がどうしても帰ろうと思った理由の一つは、ふるさとだったからなんですよ。自分の生まれ育ったところだから、失いたくなかった。川内村はどこにでもある村かもしれないけど、実際に来てもらって、村の人たちと触れ合ってもらう。それで少しでも、第二の故郷みたいに思ってくれれば。それが少しでもできれば、今の川内村の形を崩さずに、変に近代化しないで、発展できるのかなあと」。
 
 そのために渡辺さんは実に様々な活動を行い、多くのアイデアを実行に移そうとしている。

 生まれ育った川内村には、住んでいる人々も気付いていない魅力がたくさんある。それを全国に発信していきたい。その思いが「川内の郷(さと)かえるマラソン」開催に結実し、地元特産品を紹介するネットサイトの立ち上げに繋がった。そして今一番力を入れているのが、村のお母さんたちの勉強会から始まった、ヨーロッパ野菜の栽培、直販である。

 3回目を迎え、リピーターも増えてきた「川内の郷(さと)かえるマラソン」。しかし渡辺さんが残念に思っているのは、せっかく遠方から川内村まで来てくれた人々が、マラソン大会が終わるとすぐに帰ってしまうことだった。できれば泊まりがけで来て、走ったあとも周囲の自然に触れたりして、しばらく村に滞在してほしい。しかし川内村には宿泊施設もなければ、観光客向けの飲食店も数軒しかない。そこで渡辺さんが考えているのが、「民泊」である。

 「農家に民泊して、地元の人と触れ合って欲しいですね。農家の人って、自分の作ったもので収益を上げるの大変じゃないですか。都会から来た人たちを泊めて、自分たちで作ったものを食べてもらう。そこで気に入ってもらったら、米とか野菜とか売ってもいい。そうしたら収益が上がる上に、その人の喜ぶ顔が見える。直接の反応をもらうことで、さらに作る意欲が湧いてくると思うんですよね。そういう仕組みを、作りたいなと思ってるんですけどね」。

 現状では川内村へのアクセスにしても、公共交通機関はバスだけ。それも1日3、4本ぐらいしかない=写真7=。民泊のためには自宅の改造もある程度必要だし、許可申請も簡単にはできない。解決しなければならない問題はたくさんある。一方で朝夕食込みで農家に泊まり、マラソン大会やハイキングをのんびり楽しむツアーの形を提案すれば、需要はありそうだ。

写真8復興支援バスの時刻表(川内村宮ノ下地区).JPG(写真7)復興支援バスの時刻表(川内村宮ノ下地区)

 
 少し話は戻るが、渡辺さんの普段の業務はショッピングセンターの管理責任者である。ここに入っているファミリーマートには、1日800人ぐらいのお客さんが来るという。人口約2000人村の店としては非常に高い集客率であり、売り上げ自体も全国平均より、2、30万円位多いとのことだ。

 「ATMでお金がおろせる、宅配便も受け取れる、最新の本が買える。そういうのって、今まで村人たちが味わったことのなかった便利さなんですよ。ちゃんとした買い物は週に1度町のスーパーに出て、まとめて買ってくればいいだけの話で」と、渡辺さんは説明する。

 しかしコンビニの他に入っている薬屋さんとクリーニング屋さんは、赤字経営だ。けれども必要性の高い業種なので、やめるわけにはいかない。そのためコンビニであげた収益をそちらに回す形にしているが、それでも全体的には赤字とのことだった。

 会社として収益を上げたいという思いから、渡辺さんは川内村のものを外で売れないか可能性を探っていくようになった。それが軌道に乗れば、村の人たちの生産意欲をいっそうかきたてることにもなる。

 手始めに売り出したのは、蕎麦麦酒(発泡酒)と高級魚いわなの寒風干しや燻製だった。「蕎麦ガルデン」は、蕎麦を原料にした発泡酒としては川内村が全国で初めて商品化したものだ=写真8=。もの珍しさだけでなく、濃厚な味わいにファンも多い。しかし渡辺さんは、「助成金のおかげもあり、作るところまではできるんですけど、そこから売るのが大変なんですよ」と、販路拡大に苦労しているという。

写真9地元でつくられた発泡酒「蕎麦畑」「蕎」を手にする渡辺さん.JPG(写真8)地元でつくられた発泡酒「蕎麦畑」「蕎」を手にする渡辺さん


 それでも全国各地から少しずつ引き合いが来るようになり、蕎麦屋さんで出す話も進んでいるとのことだ。「つい先日も三重県に勉強会に行ってきたんですけど、帰りに名古屋に寄って、うちの商品を出してもらっている「猪口猪口(ちょこちょこ)」という蕎麦居酒屋に顔を出してきました。今後はその方向性でいけるんじゃないかなと思ってます。全国のお蕎麦屋さんや居酒屋さんで、展開できないかなと」。

 さらに渡辺さんは今年10月には、楽天市場に「阿武隈高原『旬食』」=写真9=というショッピングサイトを出店した。川内村の特産品を全国に売り出そうという試みの一つだ。上述の蕎麦ビールやいわなの他に、特産米「里山のつぶ」、そして隣接する小野町の牛肉も入れたのは、川内村を含む阿武隈高原全体を巻き込んでの展開を睨んだ戦略だ。立ち上げたばかりということもあるが、コンテンツは充実しているとはいいがたい。検索サイトで「旬食」と入力しても、上位には出てこない。それでも渡辺さんは、悠然と構えている。

写真10楽天市場_阿部隈高原『旬食』.jpg(写真9)楽天市場 阿部隈高原『旬食』


 「オープンしてすぐは全然引き合いもなかったんですけど、焦ってもしょうがないかなと。今まであちこちで村のものを売ったりして、おいしいと言ってもらったものも少なくない。でもどこで買うか、わからないと言われた。ゆくゆくは、その受け皿になってくれればいい」。

 そんな渡辺さんの強力な助っ人になりそうなのが、「ヨーロッパ野菜」=写真10=である。
 とにかく作ってくれる人がいなければ始まらないと、渡辺さんは農業普及所の指導員が、3年ほど前に立ち上げた野菜勉強会に参加している。呼びかけに応じたのは、お母さんたちばかり。あくまで自分や家族が食べるための、新しい野菜を作ってみようというごく内輪の集まりに過ぎなかった。

写真11川内村でつくられる「ヨーロッパ野菜」.JPG(写真10)川内村でつくられる「ヨーロッパ野菜」


 すると女子会のような楽しい雰囲気で、笑顔で作業する中、メンバーも少しずつ増えていった=写真11=。そこで渡辺さんは次の段階として、勉強会で作ったものを売り出すことを考えた。ヨーロッパ野菜を選んだのは、高原に位置する川内村の気候にはそれが合っているという指導員の先生のアドバイスが一つ。そして日本では手に入りにくいヨーロッパ野菜なら、高い単価で売れるのではという渡辺さんの期待もあった。

写真12作業を行う川内村のお母さんたち.JPG(写真11)作業を行う川内村のお母さんたち


 しかしお母さん方は、商売としてはやりたくないと言う。たくさん作って余ったら人にあげればいいというスタンスだったのだ。

 「それでも去年、できた野菜を蕎麦祭りに出して100円位で売り出したんですよ。そしたらそこに㈱岩見というレストランやホテルに野菜を卸す会社の方がいらして、これを仕入れたいと言ってくれたんです。

 「普及所の先生が大喜びでそのニュースをお母さん方に伝えたら、それじゃあやらないと言いだしたそうです」と、渡辺さんは苦笑する。仕事として作ったら大変だし、楽しいからやってるだけだからと。

 「でも売るものがなければ、活動が広がらない。それで㈱岩見さんが主催される展示会に、かわうち屋で出してみたんですね。そこには、イタリアンやフレンチのプロのシェフが集まっていた。で、これ欲しいと言うことになった。それを改めてお母さん方に伝えたら、『じゃぁ、やってみっか』という話になった(笑)。それがついこないだの話ですね。それで、来年から取り組もうということになりました」。

 時間はかかったが少しずつ意識が変わり、自分たちの作り出すものの価値にお母さんたちは気付いて行った。行政や村外の人頼りでなく、自分たちが一歩踏み出さなければ、川内村の再生はありえない。そう訴え続けた渡辺さんの思いに、お母さんたちが応えたのだった。彼女たちのヨーロッパ野菜は寒暖の差の激しい高原で栽培されるため、野菜本来の味が濃厚に出ているという。県内の他地域にもヨーロッパ野菜に取り組む農家はいるそうだが、川内村産がはるかにいいという評価だ。米も同様である。

 「『里山のつぶ』という冷涼地向けに福島県が開発した品種があるんですが、これもやっぱりうちのが美味しい」。川内村に近い楢葉町には、かつてJヴィレッジというサッカー日本代表などが合宿していた総合トレーニングセンターがあった。原発事故によって施設そのものは今も閉鎖されたままだが、以前そこに勤め、その後日本代表のシェフとして50試合以上に帯同した西芳照さんからも、ヨーロッパ野菜は高い評価を得ている。

 サムライブルーのシェフを務める傍ら、福島県内で二つのレストランを経営する西さんからは、こんな野菜も作ったらいいと、いろいろなアドバイスをもらっているという。さらにある日、村の農家が余らせていた米を持っていったところ、これもすごく美味しいと言ってくれた。

 こうして少しずつ、川内村の「売り」は増えつつある。あとはそれを、いかに全国区に広めていくか。渡辺さんの日々の奮闘のほとんどはそこに関わるわけだが、壁にぶつかることばかりだという。上述したネット通販もまだ立ち上げたばかりだし、渡辺さん一人で全国各地に紹介に出かけていくことで少しずつ知名度を上げることが、現状では一番有効な方法だ。他にもいろんなアイデアが湧いてくるが、それを自分の裁量で進めることができない。

 「勤めているショッピングセンターは村の施設だし、間接的な出資も受けている。スピード感は違いますが、基本的には関係する方々と確認をしながら少しずつでも進めています」。

 村特産の米にしても、お歳暮用に何百件もの引き合いがあったそうなのだが、「何やってるの。人手もないのに」といわれたりする。「せめて従業員の人件費ぐらいは、賄いたい。でも仕事を取ってくると怒られる。決められたことをやってれば、給料をもらえるんだからという話で」。

 「『金もうけのことばかり考えて』と、しょっちゅう言われますよ」と、苦笑する渡辺さん。しかし全国を飛び回るその経費は、渡辺さんがすべて自腹を切っている。「やりたいことをやらせてもらってますし、充実感はありますから」

 「作ったものを持って行けば、売ってくれる。もっといいものを作ろう、そうやって生産力が上がっていくといいんですけどね。それで村が豊かになる。変われるんだって。何とかここまで来ることができたのは行政のサポートの面もあり、これからも行政と民間がしっかりとタッグをくんでいかなければならない。そう思ってやってます」。

 来年の今頃の「旬食」サイトには、色とりどりのヨーロッパ野菜を始め、多くのコンテンツが並んでいるはずである=写真12=。

写真13取材を受ける渡辺さん.JPG(写真12)取材を受ける渡辺さん