第2弾 唯一無二のタオルでどん底から復活、世界初の撚糸工場による双葉町への企業進出の挑戦(浅野撚糸株式会社 浅野雅己 氏[岐阜県安八郡安八町/福島県双葉郡双葉町]) - 特集記事

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取組概要

1967年に浅野雅己氏が岐阜県安八町にて創業後、1969年に世界初の撚糸工場として設立。現在は博氏の息子の雅己氏が社長、孫の宏介氏が専務取締役を務めている。同社は2000年代からは自社ブランドのタオル「エアーかおる」を展開している他、2019年に双葉町を視察したことをきっかけに、2023年4月には双葉町に復興交流拠点「フタバスーパーゼロミル」を開業し、現在は復興に向けた雇用創出や経済の活性化に取り組んでいる。


「撚糸」とは何か?

――最初に、御社のご紹介をお願いいたします。

私ども浅野撚糸は1967年に創業した後、「撚糸(ねんし)」という糸の撚り加工業を専門に行う世界初の企業として1969年に設立いたしました。当社は私の祖父・浅野雅己の時代から始まり、創業から1999年までは、糸の撚り加工の下請けをずっとやってきました。ただ、2000年に入ってから加工費が安価な中国など海外の方に下請け加工が移行してしまって、ほとんどの仕事がなくなるという状態に陥りました。それまで右肩上がりだった業績が、2000年を境にどんどん落ちていってたんです。なので、このままではまずいということで、私の父である現社長・浅野雅己が、「SUPER ZEROR」という特殊な撚糸の開発に2003年から着手し、これは後に特許を取得いたしました。その後、2007年に現在の主力商品である「エアーかおる」の販売を始めたのですが、2019年に経済産業省の方から福島県への企業誘致のご提案をいただきました。とりあえず現場を視察してみようということでその年の7月に福島県を訪問し、東日本大震災で福島第1原発の影響を受けた市町村を、社長以下うちの役員全員で回らせていただきました。そして、最後に双葉町を視察させていただいたのですが、帰りの車の中で社長が「双葉で決まりだな」と言ったんですね。それからは一気に話が進んで、同年の10月には双葉町と立地協定を結ばせていただいて、昨年(2023年)の4月には工場・ショップ・カフェが一体となった復興交流拠点「フタバスーパーゼロミル」を開業し、今年(2024年)の4月にちょうど1周年を迎えた次第です。

――「撚糸」という言葉は普段なかなか耳にしないのではないかと思われますが、そもそも「撚糸」とはどういったものなのでしょうか?

仰る通り、「撚糸」という言葉はなかなか表に出てこず、おそらく一般の方は全く知らない言葉だと思いますし、実は繊維の業界の中でも知らない方が少なくありません。せっかくの機会ですので、ここでは綿を軸に「撚糸」とは何かについてご説明させていただきますね。綿を糸にするまでには、まずは綿花、つまりはコットンの栽培から始まります。綿花は畑で栽培されますが、現在の日本ではもうほとんどやっていませんので、海外で栽培した綿花を輸入している企業が大半になります。その後、収穫した綿花から種やゴミなどの不純物を取り除いて、線維の流れを整えた後に糸へと加工していきます。綿を整えてどんどん細くしていき、最終的に綿が糸になるよう紡いでいくこの工程のことを「紡績」と言います。それで、実はこの糸になった段階で、色々な生地であったり、あるいは衣類であったりを作ることができるのですが、私たちのやっている「撚糸」というのは、紡績によって作られた1本の糸を、別の糸と撚り合わせて1本にする作業なんです。その際、同じ素材の糸を複数本撚り合わせることもあれば、綿の糸とゴムのような別の素材でできた糸とを撚り合わせることもあります。なぜするのかというと、一つは強度が上がるからであり、もう一つは、別の素材を組み合わせることでそれぞれの性質を持った糸が作れるからですね。ちなみに、当社が特許を取得した「SUPER ZEROR」は、綿の糸にお湯で溶ける水溶性の糸を合わせたもので、それによって糸の間にすき間が生じることで空気を沢山含むことができ、吸水性と柔らかさが長続きします。このように、「撚糸」によって様々な糸を撚り合わせることができ、用いる素材や加工法など無限の可能性を秘めていて、それがとても面白いと思います。



自己破産寸前の会社を救った「エアーかおる」

――「SUPER ZEROR」の開発のきっかけについてお聞かせください。

冒頭でも申し上げたように、2000年に入ってから撚糸の加工業のほとんどが海外に移ってしまい、仕事が激減したことがきっかけになります。当時はこのままでは会社が潰れるというところまで追い込まれ、社長も自ら営業に駆け回ったんですけども、そうした中でたまたま社長が営業で大阪に行った際、過去に撚糸の取引でお仕事をいただいていたクラレさんの看板を見つけたので、駄目元で寄ったんです。すると、「うち(クラレ)が開発したけれどお蔵入りになりかけている糸があって、これを使って何か開発できないか?」というご提案をいただいたんですね。その糸というのがお湯に溶ける水溶性の糸なのですが、従来の水溶性の糸はあまり伸び縮みしないんだけど、クラレさんが開発したその糸は結構伸び縮みするんです。それを見たうちの社長が「もしかしたらゴムの代わりになるかもしれない」と思い、その糸を使った新しい糸の開発をスタートしました。それが現在の「SUPERZEROR」へと繋がっていくわけですが、今お話ししたように、最初は伸び縮みするストレッチの効いた生地の開発からスタートしたので、元々はタオル用の糸ではありませんでした。

――そこから「エアーかおる」の開発までには、どのような経緯があったのでしょうか?

「SUPER ZEROR」を開発できたものの、デフレ真っ只中の時代ということで、取り扱ってくださる企業さんがなかなか出てこなかったんですね。そうした中で三重県のおぼろタオルさんと知り合って、それをきっかけにタオルを作ってみようという話になりました。ただ、「SUPER ZEROR」は元々ストレッチの効いた生地を目指して開発されたものですので、当初は「エアーかおる」のような柔らかいものではなく、伸縮性に富んだタオルを作るつもりでした。ところが、おぼろタオルさんに試作を依頼して、うちで作った糸を入れる箇所をこちらで指定したところ、先方は「タオルで一番重要なのはパイルだろう」と、パイルのループ状になる部分に間違えて糸を入れてしまったんです。その後、完成したサンプルがうちの会社に送られてきたのですが、社長がタオルを引っ張っても全然伸び縮みしなくて、おかしいと思って先方の社長さんに電話したら、お互いに「あれ?」と(笑)。でも、確かに伸び縮みはしないんだけど、向こうの社長さんが「うちは今まで色々なタオルを作ってきたけれど、こんなにふっくらして柔らかいタオルは他に見たことがない」と仰るんですね。そうした偶然があって、そこから現在の「エアーかおる」の開発が始まりました。

――そうして完成したタオルに「エアーかおる」という名前を付けて、つまりは自社ブランドを立ち上げて販売を進めたのはなぜですか?

なぜ自社ブランドを立ち上げたのかというと、私の母がきっかけになります。うちは私の父親が社長で、タオルが完成した頃は祖父も存命だったのですが、そういう中で会社が経営の危機を迎えていたので、「浅野撚糸が潰れるぞ」という噂が全部、祖父の耳に入るわけです。すると、家族の関係もぎくしゃくしてしまって、それで浅野家も崩壊の危機を迎えていたのですが、母になるべく負担が行かないよう、父も東京に出張する際には母のエスケープという意味も込めて出張に同行させていたんですね。だけど、東京中の大手問屋さんにアポイントを取って回ったんですけど、結局は全て断られてしまいます。このときには父も「もう浅野撚糸は終わったな」と思ったらしく、自己破産を決めていたそうです。ただ、「せっかく東京に来たのだし、何か美味しいものを食べようか」という話になって、母が「じゃあ、お寿司食べたい」と。でも、東京でお寿司と言えば銀座や築地が有名ですが、どこのお店も値段が書いていないようなところばかりで……「こんなにうちが不景気なのに、流石にこんな高いところに入れないな……」と思っていたら、たまたま看板に値段が書いてあるお店があったので、そこに入った。それでお寿司を食べながら、父は自己破産の話を母に打ち明けようとしたそうなのですが、母がとても美味しそうにお寿司を食べているので、なかなか話を切り出せない。そうこうしているうちに、母が不意にこう言ったんです、「お父さん、絶対諦めたらあかんよ。ここのお寿司美味しいから、うちの撚糸を手伝ってくれている協力工場さんも、うちの社員も、儲けて連れてこなあかん」って。この母の言葉で父は立ち直って、そこから「もう一度頑張ろう」と決意したそうです。その後、それまでの問屋さん頼みの商売、ただ受け身の受注だけの商売ではなくて、「自分たちの最終製品を作って、それを持って売り込もう」という風に考えを改めて、それで自社ブランドを立ち上げるに至った次第です。ちなみに、「エアーかおる」のブランドのロゴは、母がお寿司を美味しそうに食べていたときの顔なんです(笑)。

――「エアーかおる」の良さというのは、どういったところにあるのでしょうか?

他のタオルと圧倒的に違うところは、私たちはやっぱり糸から特許を取得した撚糸工法で作っていて、糸からも違うというところです。その上で通常のタオルと比べると、やはり一番の特徴は吸水性ですね。「エアーかおる」の吸水性については、もしかすると世界一かもしれないと思っています。あと、吸水性が高いということは、乾燥スピードも物凄く速いということでもあります。それから、柔らかいのにとても丈夫なところですね。実はタオルって、柔らかければ柔らかいタオルであればあるほど、毛羽落ちが多くなって劣化しやすくなるんですよ。一方で私たちのタオルは、柔らかいんだけども洗濯すればするほど膨らんでいって、それでいて毛羽落ちも少ない。そのため「エアーかおる」は肌にも優しくて、日本アトピー協会の推薦品の認証もいただいています。なので、タオルの全ての良いとこ取りをしているのが「エアーかおる」で、その「エアーかおる」を作っているのが「SUPER ZEROR」ということになります。



双葉の人々の熱意に押され

――2019年の経産省から企業誘致の提案について、冒頭のお話を伺った限りでは、双葉町を視察された後、帰りの車の中で「双葉で決まりだな」と浅野社長が仰ったという感じで、かなりのスピード感で話が進んでいったように思われます。今振り返って、双葉町への進出の決め手は何だったのでしょうか?

一つは、社長が福島大学出身ということもあり、第二の故郷に恩返しをしたいということが挙げられます。ただ、一番の要因は双葉町で出会った方々の熱意に押されたことですね。先程も申し上げたように、福島の視察は2019年に社長以下うちの役員全員で行ったのですが、私もそのときに初めて福島県を訪問して、それまでは失礼ながら「東日本大震災の復興ってもうある程度進んで、家もある程度は建ち始めてるんだろう」と思っていました。ところが、いざ行ってみると全くと言っていいほど進んでいない。あのときは被害状況が軽い比較的復興が進んでいるところから順番に見ていって、最後に双葉町に行ったのですが、双葉は私たちが行った2019年の時点で、町全部にまだバリケードが張られていました。それで、町長ですら入るのに許可がいるというところを見させていただいたり、私たちが行ったときにようやく除染作業が始まったばかりという話を伺ったりしたのですが、正直に言って「まるで映画のような世界だな」と思いました。そうしていくうちに、現状を知りもしないのに楽観視していたことが急に恥ずかしくなり、同時に「日本にまだこんなところがあったのか」というショックが込み上げてきました。それから視察を終えた日の夜に、町長である伊澤史朗さんや経産省の方、双葉町の役場の方々が出席する懇親会があり、夕食をご一緒させていただきました。その席で、伊澤町長が社長に、色々な思いを正直に伝えてくださったんです。そのときに伊澤町長が仰っていたことをまとめると、「双葉町を見て、浅野撚糸さんは『この町には来たくない』と思ったのではないか。双葉町はこれから除染作業が進んでいくが、まだ復興がどうなるかは分からないし、町民が本当に帰ってきてくれるか自分も想像できない。だけど、せっかく今回色々な市町村を回ってもらったわけだし、もちろん放射能の影響も少なからずあるけれど、せめて誘致を希望しているところに、うちの町でなくてもいいから、どこかに興味を持ってもらえたら、そして願わくば実際に来ていただけたら凄く嬉しい」という内容でした。私自身、そのお話を伺って私利私欲のなさに驚きましたし、「町の復興だけでなく、福島全体の復興に凄く力を入れられている方なんだな」という印象を抱きました。あと、双葉町の役場の方々とも色々とお話しさせていただいたのですが、いわゆる「お役人」みたいな、固い感じのイメージと全然違っていたことにも驚きました。考え方とか働きぶりとかにとても熱意を感じましたし、震災からある程度の時間が経った中で、まだ復興には程遠い状況なのに、ひたすら前を向いて復興に対して諦めずに進んでおられる姿を見て、私自身「この人たちと一緒にやるのであれば、たとえ失敗しても後悔しないだろうな」と思いました。その後、懇親会を終えて帰り道に今回の視察を振り返ったのですが、そのときに社長は「双葉に進出しよう」と、ほとんど直感的に思っていたそうです。なぜ双葉町なのかというと、企業として進出する以上、私たちはボランティアで行くわけではない。もちろん、「復興に協力したい」という思いはあるけれども、私たちはあくまでも企業だから、行った先できちんと儲けを出して、その地域に税金を落とすなり、次なる投資をするなりしていかなければならない。そして、地元住民の方々をきちんと雇用させていただくというのが、会社としての復興への社会貢献である。これらを踏まえて考えると、一番復興が進んでいないのが双葉町だけど、一番条件が厳しいところに進出すれば、それだけ注目も集めるだろう……この町が浅野撚糸と共に世界へ翔ける町だとと、こういうことを考えた結果、社長の中で「双葉で決まりだな」になったわけです。ちなみに、このことは立地協定を結んだ際に伊澤町長にもお話ししたのですが、「その発想はなかった」と言って、とても喜んでくださいました。まぁ、私たちは商売人ですから、色々としたたかに考えていって、「一番復興が厳しいところに行けばくことにより一番注目を集めるその意義がある」と思いましたし、それを喜んでくださったのは素直に嬉しかったですね。


「フタバスーパーゼロミル」について

――改めて、「フタバスーパーゼロミル」とはどのような施設なのでしょうか?

「フタバスーパーゼロミル」は2023年4月に、工場・ショップ・カフェが一体となった復興交流拠点として開業させていただきました。中心となる工場には撚糸機が20台設置されており、本社工場が今35台なのでそれよりは少し少ないですが、工場単体では浅野撚糸の最大の工場です。それでもかなりの数の加工が行えます。また、ショップ部分は2階建てになっており、1階では「エアーかおる」を始めとするタオルの販売を、2階ではアウトレット商品の販売をそれぞれしています。それから併設しているカフェでは、ドリンク以外にもモーニングであったり、ランチであったり、そういうものも食べていただけるメニューを取り揃えています。

――復興交流拠点としては、どのような利活用がされているのでしょうか?

一番の特徴としては、施設自体がオープンファクトリー、つまりは開かれた工場を謳っていることです。実際、「フタバスーパーゼロミル」に来ていただいたらショップで買い物もできるし、カフェでお茶もできるし、施設内の工場の見学もできますし、浅野撚糸の、さらには「フタバスーパーゼロミル」自体がどのような経緯で作られたのかという、全ての歴史も見学できます。あと、利活用という点で大きなことがもう一つあって、よく双葉町の方々、あるいは福島県の方々に利用していただいてるんですけど、施設を使って勉強会やセミナー、イベントなどを開くこともできます。それこそ日本フィルハーモニー交響楽団さんが復興支援という形でもう2回も演奏会を開いてくださったり、他にも復興に力を入れられているキャンドル・ジュンさんが来てくださり、中庭にキャンドルを並べていただいたりしました。なので本当に何でもできる施設ですし、これからも色々なイベントをやっていければと考えています。

――この1年間のご経験を踏まえて、今後の課題としてはどのようなことが挙げられますか?

いくつかのポイントがあるのですが、まず雇用面については、いざ開業しても双葉町の方々が現状では全然町に帰ってきていないので、それを今後どうしていくかが課題ですね。本来であれば「帰ってきた地元で働いていただける場所がある」というのが理想だったのですが、少なくとも今の時点で、うちの従業員に双葉町の方は1人もいません。もちろん、私たちや町の方々は双葉に帰ってきてくださることを望んでいますし、いつでもウェルカムなんですが、そもそも帰ってこられる方の数自体が少なく、加えて働き盛りの年齢の方はほぼ0です町の生活インフラの状況も含め難しいかと思います。もっとも、こうなってしまうことについては理解できる部分もあって、ほとんどの元町民の方々はおそらく避難先で働き口を見つけているだろうし、場合によっては土地を買って新たに家を建てているかもしれない。さらに言えば、現在の双葉町には学校や保育園がないので、お子さんがおられるご家庭であればなおさらですよね。だから、今になって戻ってくるのが難しいというのは分かるんですよ。とはいえ、元々の想定と現実にズレがあることは確かなので、いかにして町の方に戻ってきていただいて、安心して働いていただけるかが、今後の課題になっていくと思います。あと「スーパーゼロミル」自体については、工場部分に関してはまだ稼働に余裕があるので、これからしっかりとフル稼働させていきたいと考えています。その他の部分については、今の時点でも色々なイベントをすでにやらさせていただいていますが、今後さらに観光スポットというか、「双葉町にいったらあそこに行くと面白いよ」と多くの方々から言っていただける、言い換えれば「フタバスーパーゼロミル」自体が双葉に行くきっかけになるような仕掛けを作っていきたいですね。まだまだ交流人口が少ないので、双葉町に来ていただけるようなきっかけ作りは絶対に必要になってくると思いますし、正直な話、ちょっと本気で一緒に考えていかないと、なかなか今のままでは厳しい現状があると思います。もちろん、町もそうですが県も国も様々な事情がありますから、なかなか大きなことは言えないでしょう。ただ、このまま復興が風化されて、おそらく今後注目が減っていくであろうことは十分考えられますから町の復興自体がどうなっていくのか、今のうちに本気で腰を据えてやらなければならないと思います。



復興のモデルケースを目指して

――「フタバスーパーゼロミル」の今後の展望についてお聞かせください。

何よりもまず、これからも「フタバスーパーゼロミル」を通じて復興に貢献していきたいと考えています。復興についてはまだまだ道半ばだと思いますが、私たちとしては双葉町から被災地の現状や復興に向けた取り組みについて世界に向けて発信していきたいと思っていますし、それこそ国内及び海外の企業さんや一般の方々に私たちの工場を見ていただいて、どのような取り組みをしているのか参考にしていただければありがたいですね。あと、今はまだ動き出したばかりですが、将来的には「フタバスーパーゼロミル」から海外に向けてタオルや糸などの輸出もしていきたいです。あそこはフル稼働すれば物凄い生産能力がありますから、人の問題と向き合いつつ、そうしたこともやっていければと思います。

――震災からの復興について、どのようなことを世界に向けて発信していきたいと考えておられますか?

あくまでも個人的な考えですが、海外の少なくない方々は、双葉町を「死んだ町復興とは程遠い」と見ていると思うんですよね。それくらい原子力災害というのは大変な出来事ですし、例えばチェルノブイリ(チョルノービリ)は事故が起こってから40年近くが経過しようとしていますが、未だに街が放置されたままですよね。なので、それを知っている人は、「よくあんなところを復興させようと思うな」と思っていると思うんです。でも、私たちを含めて、そういうところをこの国は復興させようとしている。これって凄く特殊というか、その気概自体が凄いと思います。だから、どれだけかかるか分からないけれど、復興が実現すれば世界に対して稀有なケーススタディになると思いますし、このことは廃炉についても同様のことが言えると思います。もちろん、それを実現するのは並大抵のことではないけれど、実現した暁にはノウハウを一番最初に手に入れるのは日本という国はすごいということになります。なので、私たちとしても、微力ながら復興に向けてお手伝いをさせていただければと考えています。何よりも、私たち自身が「原子力災害に遭ってもこういう風に復興・発展していけるんだぞ」というモデルケースの一つになりたいし大和魂の心を大事にしていきたいですし、それを広く発信していきたい。そうすれば、他の企業さんも「うちも進出してみよう」と思ってくださるかもしれないし、それを通じて双葉町に企業が増えれば、復興のスピードも加速していくのではないかと思います。願わくば、海外に対して「双葉町は一旦は原子力災害でめちゃくちゃになったけれど、皆が復興に向けて頑張った結果、以前よりも凄い町になったぞ」というところを世界に見せつけたいですし、そう言える日が一日も早く訪れるよう、私たちも今後ますます尽力していく所存です。


浅野撚糸株式会社 浅野雅己 氏[岐阜県安八郡安八町/福島県双葉郡双葉町]
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