第1弾 過疎集落を盛り上げて100年先にも残していくための地域づくり(一般社団法人葛力創造舎 下枝浩徳 氏[福島県双葉郡葛尾村])


取組概要

福島県の原発被災地域にある葛尾村出身の下枝浩徳氏が2012年に設立。「葛尾村の持続」をテーマに、アーティスト・イン・レジデンス「Katsurao AIR」、宿泊滞在を通じて地域の暮らしが体験できる民泊「ZICCA」、葛尾村産の農産物やお酒のサンプルを送る「SHIOKURI」など、同村の魅力を発信するための様々な事業を運営している他、移住・定住人口の確保にも精力的に取り組んでいる。本記事では下枝氏にこれまでの活動から今後についてインタビューを行った。


原発被災地域で始める地域づくり

――最初に、御法人のご紹介をお願いいたします。

当団体は福島県の原発被災地域にある葛尾村というところをフィールドに、地域づくりのプロデュースを中心に活動しています。フィールドにしている葛尾村は原発被災地域にあって、元々1,500人ほどあった人口が、原発事故による長期避難によって、実数としての居住者数の方がおよそ300人くらいまで減りました。加えてそのほとんどが高齢者で、子供の数も小・中学生合わせて20人もいないという状況です。こうした中で当団体では、葛尾村の持続に向けて、葛尾の魅力の発信から、関係人口の獲得までを一貫して取り組んでいます。具体的には、魅力の掘り起こしのためのアーティスト・イン・レジデンス「Katsurao AIR」や、村に来た方がその魅力に触れる機会作りとして、宿泊滞在を通じて地域の暮らしが体験できる民泊「ZICCA」の運営、より葛尾の魅力を遠くに発信するための日本酒・甘酒などの開発・販売を行うブランド事業および葛尾村産の農産物やお酒などのサンプルを送る「SHIOKURI」などを行っています。

――下枝さんが葛力創造舎を立ち上げられたきっかけは何でしょうか?

葛尾村が東日本大震災によって原発被災地域になったことですね。私は葛尾村の出身で、当時の葛尾には地域づくりをする団体がなかったので、「国や自治体を頼るだけではなく、民間の方でもやらなければといけない」と思い団体を立ち上げました。一応、Uターンすること自体は震災発生以前から決意していたので、仮に震災がなかったとしても、「地域づくり」という意味では同じようなことをやっていたかもしれません。



 ――県外の方に向けて、葛尾村がどういうところなのか、ご紹介をお願いできますか?

そもそも葛尾村という場所は、一言で言えば「軽井沢」です。高原型の気候なので、夏は涼しくて冬は寒いんですね。それから風が強く吹くというのも特徴で、それらに裏付けされた産業としては畜産が強いです。なぜなら、乾燥しているので動物の体調管理が比較的しやすいし、病気も出にくいんですね。特に特徴的な産業としては、元々この辺りは馬産が行われていました。なので、最近はその馬産に紐づいた、馬を通じて村の自然や歴史、人を発信するコンテンツを新たに作っていければと考えています。


住民の「やってみたい」を汲み取る

――地域づくりにおいては「地域住民の理解を得る」ということが重要な課題となってきますが、様々な方がおられる中で理解を得て合意を形成するというのは、かなり難しいことのように思われます。

実際その通りで、地域づくりには住民の総意が必要ではあるんですけれども、その確認のタイミングや誰が始めるのかということがとても重要になってきます。大抵の場合、住民の方で「地域づくりをしよう」と最初から思っている人はまずいないので、やっぱり自分から率先してやり始めるということが大事だと思います。また、「理解を得る」と言っても、現実的に考えて住民全員の合意を得るというのは難しいとも考えています。何万人もいる都市部であっても、数百人程度の村であっても、おそらく全員が合意するということはまずありません。だから当団体もそうですが、「住民の皆さんが取り組みに協力してくれる」と言った場合、それは「皆が一体となって」というよりは、「皆がそれぞれの思いを持って」というニュアンスが強い気がします。

――そうした課題がある中で、どのような形で住民の方々のご理解を得ていったのでしょうか?

震災直後には行政主導の協議会や委員会みたいな形で、最初から箱があって考えるみたいな、どちらかと言えば普段的な動きが多かったのですが、改めて住民の人たちの立ち位置を考えた際、そうした仕組みの上では住民のニーズを上手く汲み取れないことが多いと気付きました。そこで、住民の皆さんにヒアリングを実施してやりたいことについて話してもらう、いわば住民の人たちに寄り添うような感じで始めていきました。具体的には、「震災前の暮らしの何が幸せや生きがいだったのか?」ということを聞いていき、「しなければならない」ではなく「やってみたい」を元に村の再生を始めていった感じです。人口数百人の村とはいえヒアリングには時間がかかりましたが、今では住民全員へのヒアリングが完了しています。

――地域づくりでは地域の資源を用いて地域おこしをする事例がよく見られますが、どのように資源を見つけていったのでしょうか?
よく誤解されがちなのですが、資源というものが最初からあるわけではないんです。一応、資源が元々ある地域もあるとは思いますが、そういう地域は凄く恵まれているし、日本の場合、ほとんどの地域に資源はないと思います。では何があるのかというと、資源はないんだけれども「素材」があるんですね。だから資源を用いる場合、地域の中で誰かが「どういった素材があって、何が資源となりうるか?」を考えていき、素材を磨くことで、それが資源となっていくと思います。そうした資源の一つとして、例えば葛尾村では震災前は米作りが行われていたので、それを素材に日本酒や甘酒を作り、葛尾村産というブランディングをしていった、という感じです。




これまでの取り組みとニーズの変化

――御法人の場合、立ち上げから10年以上が経過しており、当時と現在とでは様々な変化があるのではないかと思われますが、立ち上げ当初はどのような取り組みをされておられましたか?

最初は目の前の課題や住民の人たちの思いに寄り添って、一つずつやることを作っていきました。具体的には、住民の方々が求めていて、かつ、自分たちでもできるということで、農業体験イベントやツアーのPRイベントを最初の一年はやっていました。その後、団体の立ち上げ当初は地域との繋がりやネットワークがなかったので、途中から全体の見直しを行った上で、中長期的な視点から見て持続可能なグランドビジョンを作っていったというのが、大まかな流れになります。なので、最初の段階に関しては、地域の人たちの関係作りや手元の課題を形にしていくところから始めたという感じですね。

――その際に出てきた課題としては、例えばどのようなものが挙げられますか?

何に困っているか村の人たちにヒアリングをして分かったのは、お金の問題もありますが、それ以上に多くの住民が「震災によって生きがいがなくなってしまった」と感じていたということです。震災前の葛尾村では、村の人々は山に入って山菜やキノコを採って食べていたり、田んぼや畑で自分たちの食べ物を育てたりしていました。ところが、震災によってそうした生活が失われてしまった。そこで、うちの団体では「生きがいを再生しよう」というところから始めていったわけです。具体的に言うと、イベント的に田植え体験を実施する。すると、来る人が泊まれる施設がなかったので民泊を始める。そしてお米の収穫量が増えていくと、それを使った商品を作っていく。こういった具合に、目の前にある課題や住民の思い、やりたいことを一歩一歩形にしていったというのが、立ち上げ当初から5年目くらいの動きになります。



――法人の立ち上げ当初と現在とで、住民の方々のニーズの変化は何かありましたか?

先程も申し上げたように、震災直後は喪失感に対して「生きがいを取り戻そう」という感じで頑張ってきましたが、最近は被害や失ったものについて割と受け入れている部分もあるように思います。あと、葛尾村は元々住民の多くが高齢者ですが、震災から10年以上が経ち、高齢化が進行してきました。一方で若い移住者も増えてきているのですが、そうした人たちに話を聞くと、「同世代の人がいないから寂しい」や「繋がりがほしい」といった声をよく耳にします。現実問題、例えば80世帯あった集落が20~30世帯ほどになってしまうと、やはり隣近所がいないことに寂しさを覚えますし、仮にそこに移住者が来ても、繋がりを作るのはなかなか難しいと思います。一方で以前から住んでいた方にしても、「以前の村と違う」と感じることもあると思いますし、こうした元の住民と新しい住民の溝をどうやって埋めていくかが新しい課題というか、今後の課題になっていくだろうと考えています。

自分がいない時代でも村を「推す」人々を残していく

――ホームページでは「宝財踊り」という、無形民俗文化財の復活が事例として紹介されていましたが、こうしたお祭りの維持・再生についても今後さらに取り組んでいかれるのでしょうか?

そうですね。お祭り系については葛尾村には大きく分けて三つの踊りがあって、一つは旧野川村で行われていた「岩門獅子舞」、一つは旧葛尾村の「三匹獅子」、そしてもう一つが「宝財踊り」です。この「宝財踊り」は元々南北朝時代に起源を持つ伝統的な踊りなのですが、葛尾村では野行地区を開墾した人々によって1915(大正4)年から始まりました。その後、1962(昭和37)年に一度途絶え、1983(昭和58)年に有志の人たちによって保存会が立ち上がったのですが、震災によって再び途絶えてしまいました。私たちの団体はこの伝統的な踊りをどうにか復活させたいと思い、2021年から復活に向けたプロジェクトをスタートしました。そして2022年8月、野行地区の方々や広野町にあるふたば未来学園高校の演劇部の皆さんのお力を借りて、「葛尾劇『宝・宝・宝』」を開催した、という流れです。



――高校生の方々のお力をお借りしたとのことですが、一方で下枝さんは現在、東北芸術工科大学で教鞭をとっておられます。そこでお聞きしたいのですが、大学ではどのようなことを教えておられるのでしょうか? また、「コミュニティ」や「ニーズ」などの点に関して、学生の方々の特徴や傾向として、何か気になっておられる点はありますか?

大学ではコミュニティデザインとして地域づくりについて教えています。学生の傾向としては、最近だとやっぱり「推し活」の話をよく耳にしますね。「推し」という言葉も深いなと思うんですが、これって要するに「自分の帰属をどこに持つか?」という話で、少し前であれば学校とかのコミュニティが帰属先としてありましたが、今は帰属先がないか、あるいは帰属先そのものが多様化しています。その意味で「推し」というのは、新しく出てきた帰属先の一つだと思っています。

――一口に「推し活」と言っても、現在では「推し」の対象も多様化していると思われますが、ある意味で御法人の取り組みについては、「地域推し」と言えるような気がします。このことを踏まえて、今後どのように「地域推し」を進めていこうとお考えでしょうか?

今は個々人が自分で「推し」を見つけていますが、昔は「推し」を指定されていたというか、「地域や社会を大事にしなさい」ということがしきりに言われていましたよね。私もそういう教育を受けてきた世代だし、だから一昔前は、お祭りなどの伝統行事が重要視されたわけです。だけど、そうした地域にかつてあった「推し活」については、時代の流れについていけなかった部分があると思っていて、例えば先程申し上げた「三匹獅子」では、太鼓を叩く役割が花形だったのですが、今となっては誰もやりたがらないんですよね。だけど、何かに対して憧れるという気持ちは今も昔もあって、その対象が以前は太鼓の叩き手だったのが、今ではアイドルに変わっているんだと思います。そういう意味では、時代が変わっても憧れる気持ち、仲間と一体になって盛り上がりたいという気持ちは変わらないと思うので、地域のホスピタリティ的なところと上手く組み合わせることができれば面白いだろうなと考えています。例えば、皆で田植えをすることで同じ作業をしたという一体感、皆で協力して一生懸命何かをやるという達成感を、若い世代の性質を見直しながらやっていくのが、これからの地域づくりにおいては大事だと思います。


「100年先」の葛尾村を見据えて

――法人の立ち上げから10年以上が経過しましたが、今後の課題としては、どのようなことが挙げられますか?

「葛尾村の文化の伝承をどうしていくか?」ですね。というのも、「葛尾が葛尾であるとはどういうことか?」みたいなテーマで哲学対話をしたことが以前あったのですが、ただ人が住んでいるだけだったもう葛尾じゃなくて、やっぱり葛尾の記憶がちゃんと伝承されていくことが葛尾村の同一性の確保だと思うんですね。そういう意味で言うと、例えば先程例に挙げたようなお祭りとかイベントとかを通して、「元の住民から新しい住民にどうやって葛尾の記憶を渡していくか?」というのが、葛尾村の文化を100年先の未来まで残していくために、とても重要なテーマの一つだと考えています。

――具体的に地域やコミュニティを100年残していくということについて、どのようにイメージしておられますか?

こう言ってしまうのも何ですが、そもそも「100年先」なんてイメージできないと思っています。ただ、逆にイメージできないからこそ言わなきゃいけないと考えています。実際、「100年先」というのは、私自身に関して言えば自分の孫の世代になります。子供だと自分で育てることはできるけれど、孫は育てられませんよね。その意味で、歴史や記憶を未来に伝えていくためには、2~3世代くらい先を見て考えなきゃいけないと思っていて、だから「100年先」なんです。今から100年経てば、確実に自分はこの世にいませんが、自分が死んだ後の世界に対して何ができるのか、そのイマジネーションが地域づくりにおいては凄く大事ですし、例えば「目の前の仕事を作る」と言っても、5~10年で今ある仕事はほとんどなくなってしまいます。そうではなくて、「100年後の自分がいない世界のために何ができるか?」という、そのスタンス自体が大事かなと思っていて、だから「100年先」という数字を出してます。単に自分が生きるためだけであれば目の前のことだけを考えればいいんですけど、地域とはそういうスケール感ではないと思うので。なので、「100年先」というのは、100年続くコミュニティを作るということ、より掘り下げて言えば、「100年続く主体性のあるコミュニティをいかに作るか?」ということですね。お祭りを例に言えば、「この祭りを100年続けてやるぞ!」みたいな、気合というか思いのあるコミュニティを作る感じです。

――最後に、今後の抱負についてお聞かせください。

取り組みという意味では、やっぱり新しい繋がりのハブになるようなこと、具体的にはお祭りとかを作っていきたいなと思ってます。お祭りは時代を越えて基本的に皆好きですし、今では「フェス」と呼ばれていますが、昔はお祭りを通じて皆が一体となって盛り上がっていたので、地域の未来を感じつつも過去を垣間見ることができるものとして、お祭りはとても重要だと思います。あと、葛尾村ではすでに日本酒や甘酒を作っていますが、今後はどぶろくを作ってみたいなと考えています。やっぱり村の文化を軸にしたものを作りたいし、稲作で同じ体験をして、皆で一体感を味わって、できたお米がお酒になって、また新しい関係人口を…という流れが作れているので、今後は自分たちで作ったという達成感や具体性をより高めるために新しい商品を開発していきたいし、この流れをさらに発展させていきたいですね。





一般社団法人葛力創造舎 下枝浩徳 氏[福島県双葉郡葛尾村]
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