第4弾 灰色の仮設住宅に愛着の彩りを 心を通い合わせるマグネットアート

 東日本大震災で、死者888人・行方不明者152人、家屋倒壊数3,656棟という大きな被害を受けた釜石市。仮設住宅の被災者入居戸数はピーク時で2845戸にのぼった。小学6年生の時に被災し、中学・高校時代を仮設住宅で暮らした少女は、プレハブ長屋の灰色の壁をマグネットアートで彩り、大切な時間を過ごした仮設住宅にも愛着を持てるようにしようというプロジェクトに取り組んだ。

 7年前、友だちと釜石市の岸壁で釣りをしていた寺崎幸季さん=写真1=は、大きな地震の後、避難した高台から、津波にのまれ、崩れていく町を目の当たりにした。「釜石というより日本全体が終わったんじゃないか、と思った」――。その時、卒業式を1週間後に控えた小学6年生。お笑いが好きな少女は、津波を見た衝撃からPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症。自宅も半壊してしまい、避難所で暮らす辛い毎日を送っていた彼女は、たくさんの温かい心に元気づけられた、という。

01.マグネットアートに取り組む寺崎さん.jpg(写真1)マグネットアートに取り組む寺崎さん


02.釜石港の夜明け.JPG釜石港の夜明け

 一つは、ファンである芸人、ノンスタイルの石田明さんのブログだった。「辛い時やからこそ、このブログ見てもらえた時にクスッとでもしてもらえたら意味があるんちゃうか?」と前置きして、ネタをほぼ毎日のように公開していた。携帯電話でそれを読んでいた寺崎さんは「あこがれの人が応援してくれていると思うとうれしくて、心の支えになりました」と振り返る。

 
 もう一つは、18日遅れの4月5日に卒業式ができたことだ。子どもたちに卒業式をさせてあげたいと、釜石小学校に避難していた人たちが避難所になっていた体育館を空けてくれた。多くの卒業生はジャージ姿だったが、地域の人たちに温かく祝福されて、大切な節目を迎えることができた。

 
 こうした周囲の人々のやさしさに触れたことで、寺崎さんは、自分も地域の人たちを元気づけようという思いを胸に動き出す。中学2年になった彼女は「卒業式の時に体育館を空けてくれた人たちにお礼をしよう」とイベントを企画。その前、釜石でお笑いライブが開催された時に知り合った吉本興業の人に協力の依頼をしたところ、芸人さんたちに来てもらえることになり、避難所だった釜石小学校体育館でお笑いライブを開催した。当時、そこにいた人たちを招待して、みんなに喜んでもらえることができた。

 
 そうしたことがあって、お笑いの魅力により一層深くはまった寺崎さんは、中学卒業と同時に、吉本興業でマネージャーとして働こうと、同社東京本社の面接を受ける。「釜石のために何かしたいという気持ちはあったけれど、都会に比べると何もない釜石を出てみたかった」という東京へのあこがれが勝った。しかし、最終面接で「高校か大学を卒業してから、もう一度、来てください」と言われ、結果は不採用に。望みがかなわなかった寺崎さんは、もやもやとしたものを心の中に抱えつつ、地元の県立釜石高校に進学した。

 
 そんな気持ちの転機になったのは、高校1年だった2014年の夏のことだ。公益財団法人「米日カウンシル」と在日米国大使館を中心に次世代リーダー育成を目指して若者に学びの機会を提供している、官民パートナーシップ「TOMODACHIイニシアチブ」のサマー・プログラム に参加。東北地方の高校生100人と米国を訪れ、地域貢献について学んだ。そこで、既に地元のために様々な貢献活動を高校生たちと知り合ったことで、「自分も釜石のために何かしなければ」と触発された。

 
 「私は、何もないと思っていた釜石が好きではなかったけれど、地元が大好きというみんなから『釜石は海がきれいで、人も良くて、とても良い所だよね』と言われたことで、釜石のことを見直してみようという気持ちになりました」と寺崎さんは話す=写真2=。

 

a03.取材に答える寺崎さん.jpg(写真2)取材に答える寺崎さん


 さらに、帰国後には、子どもたちにキャリア学習などを提供している認定NPO法人「カタリバ」が全国の高校生を集めて開催した「全国高校生『鎌倉』カイギ~高校生が町のために何かしたっていいじゃないか〜」にも参加。地域の課題と、それの解決について考える機会を得た。

 
 釜石の課題って何だろう――。考えるうちに、仮設住宅を家だと思えない状況が、最大の課題ではないか、という思いが浮かんだ。寺崎さん自身も、小学生から高校生までの時間を仮設住宅で過ごしてきた。「けれど、私自身、仮設住宅が家だという実感がありませんでした」。


 「なぜだろう」と、友だちに聞くと、その友だちは「私にとっての家は震災前の家。仮設住宅は〝カセツ〟でしかない」と言う。「昔の自分の家への愛着が強い一方で、愛着を持てていない仮設住宅は家だと思うことができない」と気付いた。

 
 大人にとっても3年間は長いかもしれないが、子どもにとっての3年は、もっと長い。その期間を〝カセツ〟で過ごし続けるのは、少し悲しいことかもしれない。だから「仮設住宅にも愛着持ってもらえるようにしたらどうだろう」と考えた。

 
 震災直後から被災地でアートを通じた被災者の支援活動を展開していた現代美術家で東京芸術大学教授の日比野克彦氏の取り組みを思い出してひらめいたのが、プレハブ建ての仮設住宅の灰色の外壁をアートで彩ろうというアイデアだった。

 
 「住民のみんなで作れば、コミュニケーションの機会にもなるはず。それに、学校の美術の時間に何時間もかけて描いたり、作ったりした作品には愛着が生まれませんか?アートは愛着を持ってもらうには良い方法だと思いました」と寺崎さんは話す。

 

 ちょうど、寺崎さんが住む昭和園の仮設住宅(中妻町仮設団地)は、仮設住宅の集約に伴って、市内で最初に取り壊されることが決まっていた。マグネットシートで作ったアートなら、取り壊される時も、はがして次に引っ越し先に持って行くこともできる。  

 

 高校生会議の場で発表すると、この提案は決勝に残り、高い評価を受けた。 寺崎さんの地域貢献の思いを込めた「マグネットぬりえプロジェクト」は、こうして動き始めた=写真3=。

04.マグネットアートで装飾された仮設住宅.jpg(写真3)マグネットアートで彩られた仮設住宅

 仮設住宅の灰色の外壁をアートで彩ってみたいという高校生の思いは、大人たちにも共感を呼び、様々な支援となって「マグネットぬりえプロジェクト」を後押しした。釜石市の仮設住宅は2018年に、その大半の供与が終了する予定だが、プロジェクトは街に、そして他の地震被災地へと広がっている。

 周囲が、次々とプロジェクトの後押しをしてくれる。それは、ありがたいことなのだが、寺崎さんはプレッシャーを感じ始めていた。「高校生が一人だけで、たくさんのマグネットアートを集めることなんてできない。どうしたらいいのか……」。

 
 「マグネットぬりえプロジェクト」の提案は、社会起業支援NPO「アショカ・ジャパン」からも認められて、寺崎さんは2014年11月、「アショカ東北ユースベンチャー」のベンチャラーの一人に選ばれた。そこで、1年間の活動資金も受け取ることができた。

 そこで、まず、日比野克彦氏とのコンタクトを試みた。だが、なかなか連絡がとれない。途方に暮れていた2015年5月、釜石市で地域のために立ち上がった人々の支援活動をしている「三陸ひとつなぎ自然学校」の伊藤聡代表理事から、日比野氏が東北に来ていることを教えてもらい、紹介してもらうこともできた。

 寺崎さんは、約15分の面会時間の中で、プロジェクトのこと、それをやりたい理由を懸命に訴えた。すると、日比野氏も「一緒にやりましょう」と支援を快諾してくれた。すぐにマグネットシートのメーカーも紹介してくれて、マグネットシートの提供もしてもらえるようになった。

 ここからプロジェクトは一気に進んだ。8月には仙台市のイベント会場で、マグネットアートのワークショップを開催。参加者に、思い思いのハートをデザインしたシールをあしらった10センチ四方のマグネットシートを作ってもらうことができ、約1,000枚が集まった。

 さらに、震災後のボランティア・コーディネートをしていた「三陸ひとつなぎ自然学校」を訪れた、大学生や社会人のボランティアからも協力を得ることができた。しかも、そのボランティアの人たちは、地元に帰った後、周りの人に呼びかけてくれたことで、マグネットアート作りの輪は全国に拡大。SNSでの呼びかけもあって、その年の9月までに計約6,000枚のマグネットアートが全国各地から寄せられた。

 そして、9月20日には、寺崎さんが住んでいた昭和園の仮設住宅で、日比野氏らとイベントを開催。子どもからお年寄りまで、住民にもマグネットアートを作ってもらい、全国から届いたものと合わせて、仮設住宅の外壁にマグネットアートをパッチワークのように貼って飾り付けた。当日は、東京など遠方からもわざわざ足を運んで参加してくれた人もいた。「びっくりすると同時に、とてもうれしかった」と寺崎さん。プロジェクトは大成功だった=写真4、5

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              (写真4:左)マグネットを貼る寺崎さん
              (写真5:右)イベント参加者の記念写真

 これを受けて、翌2016年3月には、釜石市からの依頼を受けて、市民ホールの工事現場を囲んでいた白い安全鋼板をマグネットアートで彩るイベントも開催。マグネットぬりえプロジェクトは、仮設住宅にとどまらず、まちを彩る形で発展していった=写真6、7

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            (写真6:左)釜石PITを彩るマグネット
            (写真7:右)青葉公園商店街のプレハブ店舗にもマグネット
 
 
2017年3月には、熊本市現代美術館の「「3.11→4.14-16 アート・建築・デザインでつながる東北⇔熊本」展で、日比野氏が被災地支援の全国的なプロジェクトとして展開する「ハートマーク・ビューイング」としてマグネットアートが展示され、仙台と釜石で作られたマグネットアートと、熊本で作ったマグネットアートを交換。被災地同士、心を交わすツールにもなった。

 今後は、2019年のラグビーワールドカップ開催地に向けても、開催地になっている釜石のまちを盛り上げていくために使えないか、など、仮設住宅を飾ったマグネットアートは、様々に可能性を広げている=写真8、9


08.09.jpg     (写真8:左)釜石市鵜住居地区に立つラグビーワールドカップの案内板
     (写真9:右)造成工事の続くラグビーW杯2019の鵜住居(うすのまい)会場予定地


 震災当時、小学6年生だった女の子は、2017年春、首都圏の大学の1年生になった。昭和園の仮設住宅は2016年に取り壊され、寺崎さんも実家の釜石市の仮設住宅を離れた。しかし、プロジェクトは終わらない。東北を訪れた修学旅行生にマグネットアートを作成してもらい、東京の学校の場合は後日、寺崎さんが講演に行くといった地道な取り組みが今も続く。

 思いを口にすることで、多くの大人たちが支えてくれた。「高校生だからこそ、できることというものもあるのだと思います」。寺崎さんは仮設住宅で過ごした6年を、そう振り返る。大学生になって、これからどう地元の釜石に関わっていくのか。寺崎さんは、そう自問しながら、大学でまちづくりについて学んでいる。

参考.jpg現在の寺崎さん