第2弾 マイナスからの復興へ、交流人口を増やす「マルゴト陸前高田」

 東日本大震災の地震と津波で人口の7%超の命が失われ、全8069世帯の99・5%が被害に遭った。被災地の中でも極めて甚大な打撃を受けた陸前高田市。一般社団法人「マルゴト陸前高田」(以下、マルゴト)のメンバーは、世界史上稀な、マイナスからの地域おこしのため、被災前の面影をたどれないほど破壊し尽された沿岸部や山間部を日々、車で走り回っている。



1 アバッセたかた.JPG(写真1)アバッセたかた

 

 嵩(かさ)上げ工事の終わった同市高田町の中心市街地に2017年春、オープンした大型商業施設「アバッセたかた」(アバッセは一緒に行こうの意)=写真1=の辺りから周囲を一望すると、更地以外はほとんど何も見えない=写真2。沿岸部=写真3=に下りてみると、ひっきりなしに行き交う大型ダンプやトラックの巻き上げる黄土色の土ぼこりが日常の風景。「津波水位15・1M」と表示されたガソリンスタンドの看板=写真4=が、あの日、街を丸のみした水塊の巨大さを伝えている。

2 アバッセたかたの周囲0927.JPG(写真2)アバッセたかたの周囲

3 沿岸部0927.JPG(写真3)沿岸部
     4 津波水位を示す看板の下を行き交うダンプ0927.JPG(写真4)津波水位を示す看板の下を行き交うダンプ



 マルゴトは、2014年7月、陸前高田観光物産協会内の専門部会として発足した「まるごとりくぜんたかた協議会」が16年4月に独立した。「まるごと」には、全市挙げて人の受け入れ活動などに取り組もうとの意味が込められていた。独立の際、カタカナ表記に変えるだけにして精神は受け継ごうということになった。事務所は土産店、飲食店の入る「一本松茶屋」の一角にある=写真5、6

     5 沿岸部にある一本松茶屋。マルゴトの事務所は右の建物の左端にある0927.jpg(写真5)沿岸部にある一本松茶屋。マルゴトの事務所は右の建物の左端にある
     6 マルゴトの事務所0927.jpg(写真6)マルゴトの事務所

 

 事業の柱は①学校教育(修学)旅行・大学研修・企業研修の誘致とコーディネート②外国人観光客受け入れ環境の整備③地域産品の販売などだ。①は東京都内の旅行業者と提携して運営している。

 17年8月、横浜市立飯島小学校(尾上伸一校長、568人)の6年生12人(男子10人、女子2人)が陸前高田市内の民家4軒に分かれて2泊3日の民泊体験をした。同校の女性教諭が陸前高田市出身で、震災や復興ブランド米「たかたのゆめ」(※1)などについて担任クラスで話してきたことが縁で実現した。マルゴトの民泊体験はそれまで、中学、高校生を春、秋に受け入れてきた。小学生も夏も、今回が初めてだ。

 ※1「たかたのゆめ」は、震災で所有していた田んぼ約5㌶の大半を失った陸前高田市内の農家がJT(日本たばこ産業)の協力を得て「いわた13号(後の『たかたのゆめ』)」を、試食と翌年の種もみ取りのため2012年から栽培。収穫された稲は、ほのかな甘みとふくよかな香り、もっちりとした食感で、冷めてもおいしい米だった。「皆の夢を乗せた米」として公募169案から選ばれた「たかたのゆめ」は13年から一般販売されている。

 陸前高田市米崎町、警備員、菅原知巳さん(64)、幸子さん(58)の家には男子3人が泊まった。

 震災時は、高台にある菅原さん宅の庭まで津波の水が来た。下の家は全部流された。知巳さんは宮城県石巻市へ単身赴任中で、幸子さんと共に無事だった。知巳さんは7歳時の1960年に発生したチリ地震の津波で築数年の家を流され、寝ているところを母に起こされ、必死で崖をよじ登って助かった体験がある。

 2カ月前には北海道からの高校3年の男子3人を1泊2日で預かっていた。子供4人、孫5人の知巳さんは「高校生と違って今回の子らは小さいので、けがをさせないよう気を使うけど、元々子供好きなので世話は苦にならない」と、児童3人のカツカレー作りを手伝った=写真7。野菜は全部、自家菜園から。子供たちを「料理人」と呼び、ジャガイモを切る包丁さばきを心配そうに見守り、時々「ナスは最後に入れる」などと声を掛けた。震災の話題が出ると「災害はどこで起こるか分からないからね」と諭すように話していた。

7 子供たちのカレー作りを見守る菅原知巳さん.JPG(写真7)子供たちのカレー作りを見守る菅原知巳さん

 3人は滞在中、竹の準備から始めて流しそうめんを楽しみ、世界的に有名になった「奇跡の一本松(※2)」などへ案内された。「2回目なので不安は無かった。都会の子たちだけど、意外に田舎のことも知っている。孫を見ているようで、私たちのほうが楽しんでいる感じ」と妻幸子さん(58)。

 ※2震災前、陸前高田市の太平洋岸には名勝「高田松原」があった。江戸時代に植えられた防風・防砂林。約7万本の松林は市民の憩いの場であり、白砂青松の美しい景観は日本の渚百選に選定され、多くの観光客が訪れる市の名所だった。震災の大津波で松原は失われたが、唯一生き残った松が「奇跡の一本松」として復興のシンボルになった。海水の塩害で12年5月に枯死が確認されたが、人工処理でモニュメントとして現場保存。震災前に採取した種から苗木も育てている。 
 

 
ほかの家庭に泊まった子供たちは、バーベキュー=写真8や海水浴などを楽しむ一方、津波の痕跡へ案内され、当時の状況を説明してもらった。「たかたのゆめ」の田んぼで栽培農家の話を聞いたグループも。

8 バーベキューを楽しむ子供たち.JPG(写真8)バーベキューを楽しむ子供たち

 日程終了後、陸前高田市コミュニティホールでお別れの式があった=写真9。子供たち、子供たちとは別に泊まった尾上校長や付き添いの先生がお礼の言葉を述べ、受け入れ家族が感想を述べた。校長は「この体験を全校児童で共有する」とも話した。JRの鉄道代替手段、バス高速輸送システム(BRT)で帰る子供たちとの別れを惜しんだ=写真10

写真9-10.jpg     (写真 9 :左)お別れの式で感想を語る菅原知巳さん(中央)
     (写真10:右)BRTで横浜へ帰る子供たちとの別れを惜しむ受け入れ家族

 教育旅行チームの元一般企業勤務、古谷恵一さんは、横浜市からのIターン。「優しい人がたくさんいて、おいしい物もある震災前の陸前高田を知っている。震災後に来たら、街は変わってしまったが、人や自然は元のまま。陸前高田をもっと知りたい、県外の人にももっと知ってもらいたいと思い、それのできるマルゴトを、知人に紹介してもらった」

 古谷さんは「ここに初めて来る子供たちにどう説明すればいいのかに苦心する。民泊で無縁の人同士が会えたこと自体を喜び、別れ際に最後まで手を振っている姿や終わって受け入れ家族、子供、先生が喜んでいるのを見てやりがいを感じている」と話す。


  マルゴトの代表理事、大久保光男さん(60)=写真11=は「私たちの当面の使命は、単純に言うと交流人口の拡大。その土台となるのは、陸前高田で常に新しい動きをどんどんつくっていくこと。そのアクションには行政や私たちのものもあるが、もっと大事なのは市民のアクション」と話す。

 11 大久保光男さん.JPG(写真11)大久保光男さん


 東京出身の大久保さん。震災時は社外役員を務めていた都内の会社の入るビル5階の事務所に1人でいた。「大きく揺れて机の上の物がすべて落ちた。幸いけがはしなかった。自宅まで約40分歩いて帰った。途中の甲州街道は民族大移動状態。電動アシスト付き自転車を買おうと寄った店は高額の1台を残して売り切れていた。茨城県つくば市まで帰ろうとした人もいた」と振り返る。

 震災後、何らかの形で東北の復興に関わりたいという思いがあった。16年1月、陸前高田にできる新団体(マルゴト)の経営人材公募に応じた。「震災で陸前高田の中心市街地が壊滅的打撃を受けたことは漠然と頭にあった」。震災からしばらくして訪ねた南隣の宮城県気仙沼市で電動アシスト付き自転車を借りて陸前高田市を目指したが、途中の坂で電池が切れて断念。以来、「ずっと気になっていた」という。

 
 マルゴトの代表理事に就任。昨年4月に単身赴任した。「1人で地方に住むのは初めて。東北の奥ゆかしい魂をもっている人たちと、どのようにコミュニケーションをとるのか、本当に自信が無かった。でも、半年たって、楽しく話せる人たちに恵まれて、課題や悩みを話せるようになった」


 陸前高田の課題は「時間がたてばたつほど、その種類と大きさにびっくりさせられる」と話す。「この街のマイナスからの再建は土木工事ばかり目立つ。建物の土台づくりだけで5年掛かった。しかし、建物ができても、街はできない。新しい街に魂を入れるのは人の魂。人の気持ちが無いと、人はそこに足を運ばない。市民一人一人が『自分たちが何とかしなければ』という新しい街の当事者意識を持てるよう、お手伝いをしていきたい。」

  大久保さんの話を聞いた陸前高田市コミュニティホールに掲げられていた幟(のぼり)=写真12=に、こうあった。「はまってけらいん かだってけらいん」。「参加して、語って下さい」の意。震災後、ここで推進されている運動の合言葉で、当事者意識にこだわるマルゴトの姿勢にも通じる言葉だ。

 「生活の再建は何とかできたという人はそれなりにいる。ただ、地域づくりを引き続き頑張れるかどうかがカギ」と大久保さん。

12 「はまってけらいん……」の幟.JPG(写真12)「はまってけらいん……」の幟

 

 マルゴトが主に大学生、社会人向けに設定しているワークショップのメニューに「『自分』を主語にしたアクションプラン」というのがある。「街の課題を見てもらい、街の人の話を聞いてもらった上で、陸前高田のために自分だったらどうするかを考えてもらう」。当事者意識重視は徹底している。一方で、「外から来てくれる人は街の人たちに活気を分けてくれている。民泊事業でも、受け入れ家族は子供たちに元気をもらっている」という。  

 マルゴトは言葉にもこだわる。「心の振れ幅をつくる(希望と絶望に触れる)」と「希望の轍(わだち)」。

 
 前者は、来訪者に市内の4カ所ある震災遺構(「道の駅高田松原 タピック45」「気仙中学校」「下宿定住促進住宅」「奇跡の一本松・陸前高田ユースホステル」)=写真13~16=を見てもらい、当時、そこで何が起きたのか、住民はどのような恐怖心を抱いたのか、何もする気が起きないほど落ち込んだのか、などを現場で想像し考えてもらうのだ。

13 震災遺構の「道の駅高田松原 タピック45」.JPG

(写真13)震災遺構の「道の駅高田松原 タピック45」

14 震災遺構「気仙中学校」.JPG(写真14)震災遺構「気仙中学校」

15 震災遺構「下宿定住促進住宅」.JPG(写真15)震災遺構「下宿定住促進住宅」

16 a震災遺構「奇跡の一本松・陸前高田ユースホステル」.jpg(写真16)震災遺構「奇跡の一本松・陸前高田ユースホステル」

 
 後者は、教育(修学)旅行のタイトル。「この街の人々が絶望から希望へ向いて立ち上がったことを実感して、来訪者一人一人が将来の自身の轍をつくって、しっかり残してほしい」という思いを込めてスタッフが決めたという。

 
 民泊については、持続した関係性づくりを追求している。「来てくれた人には、仲間に声を掛けて次は一緒に来てもらう。受け入れ住民も子供たちに別れ際、『今度はただいまと言って帰って来いよ』と見送る人や、後で農産物を送る人が多い。子供たちから手紙をもらって喜んでいるという話もよく聞く。修学旅行で高校生の時世話になった子が大学生になって自由な時間とバイト代を得て再訪というケースも」


 陸前高田での体験によって訪れた人の心がどういうふうに振れるのか、をスタッフが推測し、それに合わせて伝え方を工夫している。受け入れ住民からは詳細な聴き取り調査をして課題解決に取り組んでいる。「来訪者の中には外国人もいるので、住民向け英会話教室を開催した。今後、料理の苦手な人向けの教室も考えている」。東京の提携会社のスタッフが学校側の要望に沿って事前事後の学習プログラムを作り、出前講座も実施している。

 
 そんなきめ細やかな活動の延長線上に「来訪者が陸前高田への移住、定住を選択肢の一つにできるようになればいい」と大久保さん。


 陸前高田市は、元市立高田東中学の校舎を「グローバル・キャンパス」=写真17=として用意。海外との交流拠点にする予定。復興活動に携わった岩手大学、立教大学の先生、学生を中心に、防災・減災や地域づくりを学び、考えて行動を起こす場でもある。どの住民にどんな経験知があるのかを蓄積し、企業の支援も得てヒューマン・ライブラリーを構築しようとする話も出ている。マルゴトは、それらのきっかけづくりを仕掛けているという。「横につなげることで新しいアクションを起こせるといいな」と大久保さん。

17 グローバル・キャンパス.JPG(写真17)グローバル・キャンパス


 17年7月にまとまった市の「人口ビジョン及び まち・ひと・しごと 総合戦略」に、「思民」という言葉がある。陸前高田に関心と愛着を持ち、市民との関係を持ち続ける人のこと。戦略の基本目標の第1番目は「陸前高田への新たな人の流れを創造し。『思民』が集うまちをつくる」。交流人口(入込観光客数)を14年度の約40万人から19年度には100万人以上にする、としている。

 
  大久保さんの2、3年後の目標は「資金的に自走できるようにすること。今は公的資金に負う部分が大きいので」。中長期的には「市内の観光業者をまとめ、観光地域づくりのかじ取り役を担う法人「DMO(Destination Management Organization)」の輪郭を描くこと。それと、人口は減っても、民泊受け入れ家族のようなアクティブ中高年を多くすること。高齢化は進むので、若い受け入れ家庭も増やしていかねば」。


 気仙沼から陸前高田へ行けなかったあの時に思民となった大久保さんと共に、マルゴトは、思民のネットワークづくりの大きな一翼を担っている。



◎陸前高田市の被災状況
死者     1757人(行方不明者を含む)

市外避難者  446人

住宅被害   8031世帯

(2017年8月現在)