第8弾 民間主導の被災者支援、そして未来のまちづくりへ(特定非営利活動法人 勿来まちづくりサポートセンター)


 震災時、行政より社協より先にボランティアセンターを立ち上げ、連日100人以上のボランティアの陣頭指揮に立った舘 敬(たち たかし)さん。「ボラセン」という言葉すら知らなかった舘さんだが、人の縁と、ためらわず前進する思いの強さで、民間から故郷の復興を推し進めた。震災から10年を経て、活動は復興から未来へのまちづくりにシフトし、ますます精力的に動いている。「新しい東北」復興・創生顕彰の受賞について、「草の根の活動に目を向けてもらえてありがたい」と話した。


継続的で生活に寄り添う支援を

 いわき市勿来(なこそ)で自動車関連の会社を経営する傍ら、複数の任意団体に所属し地元の活性化のために活動していた舘さん。2006年には特定非営利活動法人 勿来まちづくりサポートセンターを立ち上げ副理事長(11年から理事長)に就き、本格的にまちづくり活動に足を踏み入れた。

 東日本大震災の津波は、勿来地区の沿岸各地に被害を及ぼした。数日後、避難所で炊き出しをすると被災した人たちからとても喜ばれた。しかし舘さんはその光景を見ながら違うことを考えていた。「地元にいる自分たちがやるべきは単発の炊き出しではない。もっと継続的で生活に寄り添う支援なのではないか」。

 交流のあるコンサルタントに思いを伝えると、すぐさま山口県宇部市職員である弘中秀治(ひろなか しゅうじ)氏を紹介された。長年災害を専門に担当してきたプロフェッショナルだ。「ボランティアセンターを立ち上げるんですね」と言われ、舘さんはボランティアセンター(以下、ボラセン)の何たるかも知らないままに動き始めた。


民間運営のボランティアセンター

 弘中氏は、連絡から4日後の2011年3月26日にはもうやってきた。その一方、国際NGO「シャプラニールの会」も勿来へたどり着き、支援を申し出た。さっそく被災3地区の区長を集めてボラセン開設の説明を行ったが、区長らは「赤の他人が被災地の泥かきを手伝ってくれるわけがない」と戸惑うばかり。弘中氏は「ボランティアは必ず来ます。信じてほしい」と説得した。

 こうして同年4月9日、市の災害対策本部や社会福祉協議会が一切関わらない民間運営の「いわき市勿来地区災害ボランティアセンター」が発足。運営主体は勿来まちづくりサポートセンター、スタッフとして舘さんに賛同した50人ほどが集まった。

 誰もが半信半疑の初日朝7時、SNSの発信だけで30人が集まった。「バイクや鉄道で、みんな長靴をはきスコップを持ってやってきた。驚きました」と舘さん。以来毎日100人以上、多い日は200~300人が訪れた。運営の手法やスキルはすべて弘中氏が伝授し、スタッフは場数を踏んで経験値を高めていった。活動は同年5月22日まで、ほぼ休みなしに続けられた。



復興から豊かな地域づくりへ

 被災家屋の片付けなどはほぼ終了したが、被災者の支援はまだまだ必要だった。舘さんらはプロジェクト名をボラセンから「勿来(なこそ)復興プロジェクト」へ変更し活動をつづけた。避難所から借り上げ住宅へ移った被災者と、福島第一原発近くの双葉町から集団で勿来へ避難してきた人たちへの生活再建支援を活動の中心とした。

 法人としては、災害の記憶を後世へ伝える県のプロジェクトに参画。破壊された防潮堤の保存、モニュメントおよびタイムカプセルの制作に、東京芸大学、芝浦工業大学、筑波大学などと共同で取り組み、2018年に防災緑地が完成した。また、同法人が復興祈願と犠牲者への鎮魂の思いを込めて毎年開く「なこその希望プロジェクト」は2021年で10回を数えた。震災前から交流があったプロの能楽師による薪能や劇団を招いて人形浄瑠璃などの伝統芸能の上演も行ってきた。

 「復興という名のもとでの活動は10年まで」と舘さん。震災前と違う形ではあるが社会資本整備は整ったといえる。これからは日常に目を向け、豊かな地域を作る活動を中心に行っていくという。旧国民宿舎を活用した「交流スペースなっくる」の運営、いわき市内の高校生と協働する環境問題調査、学校と商店会が連携する商店街活性化プロジェクトなど、すでにいくつもの事業が始動している。

 法人会員15人とコンパクトなチームだが、地域住人を巻き込めば多くのことが実現できる。「面白いことを仕掛ければ、関わってくれる人が自然に増える。僕たちは裏方です」。顕彰の連絡を受けて「目立たない活動を見ていてもらえたんだな」と思ったという。舘さんはこれからも、まちづくりを牽引していく。




特定非営利活動法人 勿来まちづくりサポートセンター[福島県南相馬市]
http://nakoso.net