第4弾 地域の復興は自分たちの手で! 住民主体のまちづくり協議会を設立(鹿折まちづくり協議会)


 津波で非常に大きな被害を受けた気仙沼市鹿折地区。地区振興協議会等の組織が機能を喪失する中、「自分たちの手で復興を」と立ち上がった住民が設立したのが、鹿折まちづくり協議会だ。街の復興プランを市に提言するなど、積極的に動いた。一旦は衰退しそうになったものの若手の加入によって盛り返し、現在は震災からの復興にとどまらない活動を展開している。「新しい東北」復興・創生顕彰の受賞について「成果が認められ、活動を続けてきてよかった」と喜んだ。


動ける人間で団体を設立

 気仙沼市鹿折地区には、もともと鹿折地区振興協議会(地区振協)や、その下部団体にあたる鹿折地区自治会長連絡協議会があり、まちづくりや地元発展のための活動を行っていた。ところが、東日本大震災の津波で地区一帯が被害を受けたことで会員らが散り散りになり、完全に機能を失った。

 住民の舵取り役が不在となる中、当時の鹿折公民館長・小野寺優一さんの声かけにより、「鹿折の復興のために、動ける人間で何かしよう」と仲間が集まり始める。小松洋一さんはその筆頭だった。2012年10月に鹿折まちづくり協議会(まち協)が発足、小松さんは事務局長に就く。コンセプトは「行政主導ではなく、住民参加を取り入れる復興」。住民主体で運営するまちづくり協議会の発足は、気仙沼市で初めてのことだった。

 当初協力したのは、NPO法人神戸まちづくり研究所の理事長・野崎隆一(のざき りゅういち)氏だ。阪神淡路大震災の復興に取り組んだ経験を生かして的確な助言と支援を行い、住民と行政のパイプ役を買って出た。また、近畿大学(大阪)、宮城大学、工学院大学(東京)の3大学の教員と学生も、土地区画整理等に関するグランドデザイン作成を支援した。仮設住宅集会所等で定期的に「まちづくりサロン」を開いて住民の声を集め、2014年3月市長あてに「鹿折地区のグランドデザイン策定における提言書」を提出した。


活動の衰退と復活、発展へ

 ところが、活動は失速しはじめる。自治会長らを集めて発足したチームだったが、次第に意欲を失い会議の欠席者が増え、小松さんは「このままでは潰れる」と苦悩した。事務局長の悲痛な思いを聞いた同級生の市議会議員が「事務局長を補佐してまち協をなんとかしてくれ」と現会長の熊谷英明さんに協力を求めた。活動への参加を決意した熊谷さんは2014年、同年代の仲間数人とともに合流(熊谷さんは2019年に会長就任)。他にも同様の動きがあり、構成メンバーは60~70代中心から30~50代中心へと若返った。




 まち協は急速に活気を取り戻した。自治会や行政、復興整備事業者であるUR都市機構との意見交換も活発に行い、住民の声を直接届けた。次代を担う中学生世代のアイデアを公園設計や街路樹植栽計画に生かした。また、従来行政主導で行われていた避難所運営を、住民と行政の協働で行いたいと意思決定。2020年に市長へ要望を行い、採用されている。「何でも行政頼みにせず、自分たちでやる」。これは昔から鹿折に根付く精神だと熊谷さんはいう。

 もう一つ大きな出来事は、夏祭りの開催だ。震災前に毎年開かれていた「かもめまつり」を復活させようと、地区振協などの団体、企業、学校等へ働きかけて実行委員会を組織し、2016年8月11日に鹿折復興盆踊りを開いた。1300人以上を集客し、伝統の大綱引きも行った。以来毎年実施している。


復興の先を見据えて

 まち協の特長の一つは、行政との協働がスムーズなことだ。メンバーの中に行政職員がいるし、メンバーでない職員も会合に呼ばれることがあるという。「回答はいらない、一緒に考えてほしい」「『できない』ではなく『どうしたらできるか』教えてほしい」熊谷さんらは職員へ何度もそう伝え、コミュニケーションを深めている。

 地区の中学校との関わりも深く、避難所運営訓練を共同で実施する。2016年からは「ふるさと学習」の一環としてまち協が授業を行う。中学生にとって地域をよくしようと活動する身近な大人は刺激になり、「まち協に入りたいです」と意気込む生徒もいるという。

 中心部にも津波の被害が及んだ気仙沼市は、復興に年月を要した。地区の復興事業の完成度はまだ6割ほど。しかし主要産業である水産加工業は復活し、地元は確実に元気を取り戻している。まち協の活動は復興のグランドデザインから、災害に強いまちづくりや地域の発展へシフトし、復興の先にある鹿折の未来を見据えている。




鹿折まちづくり協議会[宮城県気仙沼市]
https://www.kesennuma.miyagi.jp/sec/s025/20190911160316.html