第3弾 生産者低迷の名産・甲子柿(かっしがき)を復活させる!(釜石市甲子地区活性化協議会)


 釜石市の西部、山あいに位置する甲子(かっし)地区は古くから「甲子柿」を生産していた。独特の製法が生み出す食感とおいしさが他にはない魅力だが、震災以降ほとんど作られていなかった。「地元の宝をなくすものか」と立ち上がった夫妻には次々と応援者が現れ、甲子柿は今や首都圏でも知名度を獲得しつつある。「新しい東北」復興・創生顕彰の受賞について藤井サエ子さんは、「光栄です。生産者の皆さんにも励みになる」と語った。


甲子柿を絶やすまい

 太陽や木、飛び回る鳥が明るい色彩で描かれた巨大な壁画。広場には流木を使った手作りの遊具。震災後、遊び場を奪われた子どもたちのためにと、藤井さん夫妻が作った「こすもす公園」だ。公園のすぐ脇に夫妻が経営するレストラン「創作農家こすもす」があり、ここに釜石市甲子地区活性化協議会の事務局が置かれている。同会の活動の中心は、地区の名産・甲子柿のブランディングと普及、販売促進だ。

 甲子柿は明治の初め頃から地元で作られていた。渋柿を専用の室(むろ)で1週間、煙で燻すと、ぽってりと赤くなり渋が抜け甘みが増す。独特のとろっとした食感が、唯一無二の魅力だ。しかし震災後、共同出荷もされなくなった。もともと高齢化が進んでいたことに加え、「震災後遺症」ともいうべき無気力感がまん延していたのだ。

 柿は収穫されないまま木に残り、鳥害や獣害を誘発するようになった。子どもの頃から甲子柿が大好きだったサエ子さんが悲しむのを見て、了(さとる)さんは復活させることを決意。生産者と甲子柿のファンを20人集めて、2013年2月「甲子柿を守る会」を立ち上げた。2015年4月、さらに活動を広げようと「釜石市甲子地区活性化協議会」を設立、サエ子さんが推されて会長に就いた。すでに高齢ではあったが「私は自然体。足りない分は周りの人がやってくれているの」とほほ笑む。


「宝は地元にあった!」甲子柿の価値を再認識

 甲子柿は賞味期限が短いことや、柔らかく輸送に向かないこと、また「放っておけば勝手に実がなる」という思いこみから、「誰も『売る』なんて考えたこともなかったんです」とサエ子さん。まずは、この意識を変革しなければならなかった。

 2013年と翌14年、東北電力が主催する「まちづくり元気塾」の制度を活用し、地域おこしの専門家を招いて勉強会を重ねるうち、生産者は徐々に意欲を取り戻した。「放っておくもの」だった柿の木に、剪定や摘果、追肥、害虫駆除などの手をかけ始めた。




 生産量が持ち直すと、次は商品開発だ。旬が短く、輸送にも向かない甲子柿の魅力を首都圏に伝えたい。ドレッシングやチーズケーキ、ジャム、甲子柿を丸ごと急速冷凍した商品も生み出した。農水省の交付金を2015年4月〜2018年3月までの3年間受けて雇用した若い研修生や、甲子柿と甲子地区にほれ込んだ若者らが立ち上げた「東京支部」メンバーが、首都圏への売り込みに動いた。プロのデザイナーがロゴマークやパンフレットも作ってくれ、企業とのコラボも誕生した。サエ子さん自身も招かれて何度も首都圏で講演を行った。「甲子柿が売れるなんて、誰も想像してなかったのよ。地元の宝を都会の人に教わったわね」と愉快げに話す。


顕彰を自信に、さらに地元を盛り上げる

 全国的にも非常に珍しい製法で、手間暇かけて作られる。長年、誰もその価値に気づいていなかった甲子柿は、生産者低迷以来、初めて日の目を見た。まさにV字回復だ。

 現在は、甲子柿加工品などが県内外に通年販売されている。2021年3月には、国のGI(地理的表示)登録も実現した。地区にある道の駅では、出荷時期になると早朝から行列ができ早々に売り切れる人気ぶりだという。藤井さん夫妻が起こした行動に多くの人が共感し、人が人をつないで、甲子柿は本来持つ輝きを放った。

 茨城県から来て商品開発などに携わった研修生の一人は、交付金事業の終了後も釜石市に残った。現在保育士として働きながら協議会メンバーとして熱心に甲子柿の広報活動を行い、甲子地区住人には孫のようにかわいがられてまるでアイドルだ。

 協議会には若手生産者もいて、これからを担う人材は育っている。「新しい東北」復興・創生顕彰を、「大変光栄なこと。これを自信に、協議会の活動を盛り上げたい」と藤井さん夫妻は話した。




釜石市甲子地区活性化協議会[岩手県釜石市]
http://www.sousakunoukacosmos.net/