「第3弾 被災地の課題からビジネスを生む」(前篇)

 東日本大震災の被災地では、大きく姿を変えたふるさとの復旧・復興に向かい、困難を克服したり、震災前からの課題を解決したりするさまざまな取り組みが続けられています。本連載では、昨年度「新しい東北」復興・創生顕彰を受賞された個人・団体の活動を紹介します。


「小高で人が暮らしてゆくために100の課題があれば、それを解決する100のビジネスを(つく)り出す」

 株式会社小高ワーカーズベース(以下、OWB)代表取締役、和田智行さん(40)=写真1=の掲げるミッションだ。課題の100はキャッチフレーズ的なもので、実際は「星の数ほど。(被災の)現場に居れば当たり前のように課題は自分事になる。普通の地域では課題じゃないこと、例えば昼ご飯を食べる店が1軒も無いとか、のどが渇いたけど自販機は止まっているとか」。

1 「事業展開は状況に応じ、臨機応変に」と語る和田さん.jpg(写真1)「事業展開は状況に応じ、臨機応変に」と語る和田さん

 南相馬市は三つの区で構成されている。鹿島区(旧鹿島町)、原町区(旧原町市)と小高区(旧小高町)だ。このうち小高区は全域が福島第一原子力発電所から20㌔圏内に入り、2016年7月12日の避難指示解除まで約1万3000人の全住民が避難を余儀なくされていた。
 

 ビジネスについても課題は山積。震災当時約7万2000人いた南相馬市は現在約5万4000人。特に15~64歳の生産年齢人口が約1万3000人減った。震災3年後、市の市民意向調査でも、10代~50代で「市に住む」と答えた人は13・6%~27・8%だった。働き手の確保が難しいこと一つをとっても、ビジネスを成功させることが容易ではないことが分かる。

 小高区に生まれた和田さんは震災当時、システムエンジニアとして実家で両親と住みながら東京のITベンチャー企業役員の仕事をしていた。地震で自宅の被害こそ小さかったが、父親の工場が全壊、妹の家も全壊した。「テレビをつけた時、たまたま南相馬の沿岸部が津波にのみ込まれた映像が出ていた。とんでもないことが起きたと思い、途方に暮れた」

 避難指示を受け、11年3月12日から埼玉県川越市など避難先5カ所を転々。最後は福島県会津若松市に落ち着いた。14年5月にOWBを設立、同11月に株式会社化した。家族で小高へ帰還したのは6年余りたった17年3月だ。

 17年8月下旬。土曜午後の南相馬市役所に起業志望の男女約30人が集まった。先駆的起業者の話を聞き被災地(南相馬市、浪江町)を視察する「ミートアップ/現地ツアー」の一環。このイベントの主催は、福島県沿岸部12市町村を新しい課題解決事業が生まれるフロンティアと考え、この地域に挑戦する創業志望者のためのコミュニティ「フロンティア・ベンチャー・コミュニティ」。

 ドローン、ロボットなど先進技術を生かした国際産官学協働のまちづくりを推進している南相馬市。イベントの市役所会場で、最後にあいさつに立った桜井勝延市長はこう述べて参加者を励ました=写真2。「東京で起業して成功するのは容易ではないが、ここでの起業は、来ただけで成功」。真意を確かめると「東京で評価されるのは難しいけど、南相馬に来たというだけで評価されるからね」とのこと。

2 起業志望者を励ます桜井勝延・南相馬市長.JPG(写真2)起業志望者を励ます桜井勝延・南相馬市長

 イベントの別会場で先駆的起業者として登壇した和田さん=写真3=の用意した配布資料の題は「連続的起業による避難区域の開墾」。大声で熱く語る和田さんの話に、約30人の参加者はメモを取りながら耳を傾けていた。資料は、「原発20㌔圏内は、普通の感覚では選ばれない異世界。でも、通常世界の延長線上に理想社会は(つく)れるのか? 異世界を開墾して、子供たちに残したいものを残せる新しい社会を創ろう!」という参加者への呼び掛けで終わる。先に述べたビジネスの壁に立ち向かう和田さんの覚悟、意気込みが「開墾」の2文字からうかがえる。翌日は和田さんがOWBや小高の街を案内した=写真4、5

3 起業志望者対象のイベントで事業内容を説明する和田さん.JPG(写真3)起業志望者対象のイベントで事業内容を説明する和田さん

4 起業志望者に小高区の現状などを話す和田さん.JPG(写真4)起業志望者に小高区の現状などを話す和田さん

5 事務所前で起業志望者に話す和田さん.JPG(写真5)事務所前で起業志望者に話す和田さん


 小高駅前通りにある、民家を改造したOWBの事務所を訪ねた。近くには、有名な「相馬野馬追」で駆け回る馬の休憩所=写真6=や「菓詩工房は小高区民と共に必ず復活!!」の垂れ幕=写真7=が見られる。目立つのは、ひとけの無い通りや、倒壊した住宅などを撤去した後の更地だ。小高区活性化のための拠点施設「小高浮舟ふれあい広場」には震災当日のホワイトボードが残されている。駅前の放射線量計には「0・129マイクロシーベルト時」と表示されていた=写真は記事最下部

6 小高駅近くにある相馬野馬追いの馬の休憩所.JPG(写真6)小高駅近くにある相馬野馬追の馬の休憩所

7 小高駅近くの店にはこんな垂れ幕が.JPG(写真7)小高駅近くの店にはこんな垂れ幕が


 和田さんにまず、会社の特長を尋ねた。「普通、避難区域はネガティブなイメージ。でも僕らは、こここそが、住民ゼロから新しいまちづくりをできる日本唯一のフィールドであって、この先、持続可能な日本にするための変革を起こす源になりうると考えた。事業自体は仮設店舗など、ほかでもやっていることだが、そういう志が、ほかとは違うところ」

 和田さんが最初に着手したのはコワーキング・スペースづくり。「人のいる所につくるのが普通だが、人のいない所につくることからスタートした」。事務所にあるその空間は「住民とひざを突き合わせて話す物理的環境づくり」も狙いの一つだ。インターン学生の仕事場にもなっていた=写真8

10 小高ワーカーズベースで作業するインターンの学生.JPG(写真8)小高ワーカーズベースで作業するインターンの学生

 次に、事務所近くの元ラーメン店の店舗を借り、震災後、小高区初の飲食店「おだかのひるごはん」を14年12月に始めた。除染や建築などの作業員約5千人は単身赴任の男性が多く、昼食に困っていたからだ。中華麺に麺つゆをかけて食べる「かけ麺」が人気だった。

 和田さんの想定していなかったことが起きた。客の約6割を地元の人が占めたのだ。避難先から車で食べに来る人もいた。「初めは、放射能に汚染された所で食事? とバカにされた」ものの、避難先から戻った人たちが、温かい料理を食べ、店で働く地元の主婦ら4人とたわいない話をしに来るコミュニティ再生の場になっていたのだ。「これは狙っていなかった。大人たちにも原発事故の賠償金いじめがあったりして、肩身の狭い思いをした人がいたのから求められていたのか……」

 利益が出ていたのに閉店したのは、一時別の場所で営業していたオーナーのラーメン店主が戻ってきた=写真9=から。この店主を含む事業主たちが「『小高では営業できない、帰らない』から『小高で再開する』に変わったことは大きい。僕らはそのきっかけをつくったのだから、良しとしようと」。

11 震災後、小高区初の飲食店「おだかのひるごはん」のあった場所.JPG(写真9)震災後、小高区初の飲食店「おだかのひるごはん」のあった場所

 15年9月、やはり事務所のそばに仮設スーパー「東町エンガワ商店」=写真10=が開店した。「地域復興の場に」と市、中小機構が整備し、OWBが運営を委託された。18年末までの期限付き店舗。マネジャー2人は共に商売未経験。うち1人は東京からのIターン組だ。5人のパート従業員は市内から通っている。

12 東町エンガワ商店の店内.jpg(写真10)東町エンガワ商店の店内

 

 最初は保存食だけを置いていた。初日に「なんで野菜が無いの」と客に怒られたという。肉、野菜、冷凍魚と徐々に品数を増やし、営業時間を拡大して住民の需要に応えた。16年10月、近くのコンビニが営業を再開したため、売上は一時、約4割減。地元産の商品を置くなど、コンビニとの役割分担を図り回復させた。

 最近、サッカー日本代表の専属シェフで小高出身の西芳照さんがプロデュースし、一般社団法人あすびと福島が開発した商品の販売を始めた。代表選手が試合前に食べるのと同じで、地元産トマトを使ったトマトパスタソース(1人前500円)=写真11。17年8月下旬に発売した。和田さんは「ちょっと高いかな、と思ったが結構売れている」と話す。

13 独自開発したパスタソース.JPG(写真11)独自開発したパスタソース

 「エンガワ」には「土地と人の縁をつなぎ直す」との意が込められている。店内には、全国から訪れた人たちの書き込みで3冊目になった落書き帳=写真12=が置かれ、地元小学生のメッセージ=写真13=が掲示されている。

14 東町エンガワ商店に置かれている落書き帳.JPG(写真12)東町エンガワ商店に置かれている落書き帳

15 東町エンガワ商店内に張られた小学生からのメッセージ.JPG(写真13)東町エンガワ商店内に張られた小学生からのメッセージ

 店外には当初、ベンチ2脚があったが、壊れてしまった。神奈川県小田原市で森林・林業再生と相馬の復興支援に取り組む市民主体のチーム「小田原報徳の森プロジェクト」が17年8月下旬、美しい小田原産の木でつくられた5脚のベンチ=写真14=を寄贈した。小田原と相馬を結ぶ「報徳仕法()」の縁からだという。「店の外で人が語り合う光景も無くなっていたので、見たかった」と和田さん。

16 報徳仕法の縁で東町エンガワ商店(奥)に贈られた縁台.jpg(写真14)報徳仕法の縁で東町エンガワ商店(奥)に贈られた縁台

 天明の大飢饉(だいききん)(1783~88)で、相馬中村藩では領民の約3分の1が落命したとされる。このため、藩は当時禁じられていた移住者受け入れを決定。これが奏功し、石高の約3割の土地が開墾され、領民も約1万人増えたという。尊徳の娘と結婚した富田高慶が「報徳仕法」を指導。節制を奨励して財政を再建、ため池を整備して災害に備えたため、1883~37年の天保の大飢饉の際は比較的被害が少なかったという。

 小高では昔から、危機を知恵で乗り越えてきたのだ。和田さんも「人間は課題を解決して豊かになってきた。ここでできないわけはない」と話す。

報徳仕法 尊徳仕法、二宮御仕法とも。江戸後期、小田原藩生まれの二宮尊徳が説いた農業経営再建と農村復興の方法。節約、貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じて実現を図った。尊徳の報徳思想を実践するための報徳社は、天保14(1843)年に小田原報徳社が組織されたのが始まり。小田原と相馬は、尊徳の高弟、富田高慶が相馬中村藩士だった縁がある。高慶は報徳思想の解説書「報徳論」、尊徳の伝記「報徳記」を著した。

◎南相馬市の被災状況
死者     636人(行方不明者を含む)

住宅全壊   2323棟

半壊     2425棟

(以上、2017年6月23日現在)

市外避難者 7402人

(同9月12日現在)

9 2017年8月26日の小高駅前の放射線量は…….JPG2017年8月26日の小高駅前の放射線量

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